京都府八幡市八幡清水井、石清水八幡宮より東高野街道を南へ進んだ街道沿いにある浄土宗寺院。
山号は徳迎山(とっこうざん)、本尊は阿弥陀三尊像。
鎌倉初期の1191年(建久2年)、石清水八幡宮の社家・志水家の祖となった清水(現在の静岡県静岡市清水区)の御家人・高田蔵人忠国(たかだくろうどただくに)が、鎌倉幕府を開いた源頼朝の幣礼使(へいれいし)として八幡に来住し、天台宗の寺として創建したのがはじまり。
忠国の次男・高田願阿円誓(たかだがんあえんせい)が第1世(初代住職)となり、3代・宗久の時代には高田の姓を清水の地名にちなみ、また石清水の「清」を避ける形で「志水」と改め、1326年(嘉暦元年)にはその菩提寺として寺領堂舎が整えられています。
室町時代に天台宗から浄土宗に改め、1546年(天文15年)、第11世・伝誉(でんよ)の時代には第105代・後奈良天皇(ごならてんのう 1495-1557)の帰依を受けてその勅願寺とされるとともに「徳迎山正法寺」の勅額を賜り、敷地内には数院の塔頭寺院も建立されるなど寺運は大いに隆盛。
更に桃山時代末期の1594年(文禄3年)には、志水宗清の娘・お亀(おかめ 1573-1642)が伏見城に住んでいた徳川家康(とくがわいえやす 1543-1616)の目に留まってその側室となり、1600年(慶長5年)に家康の第9子で尾張藩の初代藩主となる徳川義直(とくがわよしなお 1600-50)が誕生すると、寺領500石を有するなど、徳川家とのつながりから寺勢はますます盛んなものとなります。
お亀の方は大坂城西の丸(京都伏見城とも)で義直を産んだ後、幼い我が子とともに駿府城に引き取られ、1616年(元和2年)に家康が亡くなった後は落飾して「相応院(そうおういん)」と号し、義直とともに尾張国へ入国し以後は名古屋城で暮らすこととなりますが、寺はその後も藩祖・徳川義直の実母の菩提寺として江戸時代を通じて尾張徳川家の厚い庇護を受け続けます。
現在の伽藍は1629年(寛永6年)頃に相応院の寄進により再建されたもので、その当時に建てられた現存する本堂・唐門・大方丈は重要文化財に指定されているほか、後に建造された京都府指定文化財の小方丈・書院・鐘楼、そして庫裡を合わせた七堂伽藍で構成されていて、現在も当時の規模の伽藍をそのままに保っています。
またその他にも書院西にある庭園が「京都府指定名勝」、境内全体が「京都府文化財環境保全地区」に指定されているほか、寺宝としては国の重要文化財に指定されている高麗時代の「絹本著色如来像」や740年(天平12年)の「大方丈等大集経」、京都府指定文化財となっている中世から近代に至る1万点近くの古文書などを収蔵しています。
現在は普段は拝観できず、毎年春季の4・5・6月と秋季の10・11月に一般公開されており、公開日には重要文化財の建築物や大方丈の襖絵などを見学することができます。