京都市山科区四ノ宮中在寺町、「平家物語」にも登場する山科の諸羽山(柳山、やまぎやま)の南西麓、JR・地下鉄の山科駅から北にある毘沙門堂へと向かう途中、駅より北東へ約300mほどの地点にある神社。
祭神は天児屋根命、天太玉命など以下の6柱
天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
天太玉命(あめのふとだまのみこと)、
応神天皇(おうじんてんのう)
脇殿中央に八幡宮、
左に伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、
右に素戔鳴尊(すさのおのみこと)、若宮八幡宮
この点、天児屋根命および天太玉命は、上古の時代に禁裏御料地の山階(やましな)郷・柳山(やなぎやま)に降臨・遷座され「楊柳大明神(ようりゅうだいみょうじん)」として奉称されていました。
かつては朝廷の所有する「御料地」だった場所でしたが、平安初期の862年(貞観4年)に第56代・清和天皇の勅命で、社殿が造営され、2神が天孫降臨の神話の中で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に付き従い左右から補佐した由緒により、「両羽大明神(もろはだいみょうじん)」と改称され、裏山も「両羽山」と改められたといいます。
更に後柏原天皇の時代の永正年間(1504-21)には応神天皇、八幡神、伊弉諾尊、素戔嗚尊、若宮八幡が合祀されるに至って「両羽(もろは)」は「諸羽(もろは)」と改称され現在に至っています。
社殿は1467~77年の「応仁・文明の乱」の兵火、江戸中期の明和年間(1764-72)の大火で焼失しており、現在の社殿は1768年に再建された三代目です。
また境内は、平安前期の皇族・人康親王(さねやすしんのう)の山荘跡と伝わる場所です。
この点、人康親王は第54代・仁明天皇の第4皇子で、848年に四品・上総・常陸国の太守、弾正台(弾正尹兼常陸太守)の長官を歴任するも、859年に高熱により両目を失明したため、宮中を去ってこの地に山科御所を営み隠棲、出家して法性と号しました。
そして周辺地域は親王が第4皇子とされることにちなんで「四の(ノ)宮」「四宮社」と呼ばれるようになったともいわれており、親王ゆかりの神社として古くより四宮、安朱、竹鼻地域の産土神(うぶすなのかみ)として信仰されてきました。
他にも親王は唐から伝えられた琵琶を習い、その名手であったことでも有名で、山科で出家生活を送る中で同じような境遇にある盲人たちに琵琶や管絃、詩歌などを教えていたことから「琵琶法師」の祖神とされ、鎌倉時代や室町時代の琵琶法師からは「雨夜尊」「天夜尊」と崇められたといわれ、「伊勢物語」の第78段に「山科の禅師親王」としても登場する人物です。
また境内の本殿の西北にある末社の横には、山荘の跡にあったものを移したと伝えられ、この石に坐って琵琶を弾いたとされている人康親王ゆかりの「琵琶石」が今も残されています。
行事としては10月の第3日曜日に行われる「神幸祭」が有名で、神輿2基は自動車編成による氏子区域の巡幸が中心ですが、神社近くの区間では往復とも神輿を人が担ぎます。