京都市山科区勧修寺仁王堂町、山科にある勧修寺を大本山とする真言宗山階派の寺院。
本尊は千手観音。
1936年(昭和11年)に大石順教尼(おおいしじゅんきょうに 1888-1968)が勧修寺の境内に身障者のために建てた施設を、1951年(昭和26年)4月にかつて勧修寺の塔頭があったと伝えられる由緒ある現在地へ移設するとともに、後述する堀江事件の犠牲者の供養のため、宗教法人を設立し「仏光院」としたのがはじまり。
大石順教尼は、本名を大石よねといい、大阪道頓堀の「二葉すし」の長女として生まれ、11歳で京舞の名取りとなり、13歳の時に大阪堀江で芸妓の道を目指し、「山梅楼(やまうめろう)」の中川万次郎の養女となり、芸名を妻吉といいました。
ところが1905年(明治38年)6月21日、17歳の時に養父・中川万次郎が妻が男と駆け落ちした事から狂乱し引き起こしたという日本中を震撼させた殺傷事件「堀江六人斬り事件」の巻き添えを受けて、五人が惨殺される中で唯一命は取り留めますが、両腕を失う悲劇に見舞われます。
この不幸のどん底から、後に結婚し出産するも生活は困窮し後に離婚、画家へ転身するも関東大震災の被災で作品を失うなど、幾多の苦難を経て尼僧を志すこととなり、1933年(昭和8年)には高野山金剛峰寺にて出家得度し法名「順教」を授かり、以後は堀江事件の犠牲者の追善とともに身体障害者の救済に生涯を捧げることとなります。
1936年(昭和11年)には京都市山科の勧修寺に移住し、境内に身体障害者の福祉相談所である「自在会」を開設して婦女子を収容し、身障者の自立教育と社会復帰に務め、全国身体障害者の心の母と慕われる存在となります。
その一方で鳥かごの中でカナリヤの親鳥が雛に口でえさを運んでいる姿を見て、鳥は手がなくても一所懸命に生きていることに気づいて発心し習得したという口に筆をくわえて文字や絵を描く口筆で絵画や書の道を志し、その技術を使って描いた「般若心経」が1955年(昭和30年)の日展に入選。
その後も活動を続け1962年(昭和33年)には日本人として初めて世界身体障害者芸術協会の会員にも選ばれています。
順教尼が1968年(昭和43年)に80歳で亡くなった後、その後を継いだ大塚全教尼(おおつかぜんきょうに 1918-2007)もまた身体障害者でした。
大塚全教尼は広島県に生まれ、4歳の時に脊椎性の小児麻痺で両肩と足の自由を失いますが、小学3年生の時にわずかに動く左手で描いた菊の写生画を先生に褒められたことで、画家を志すこととなります。
その一方で1939年(昭和14年)、21歳の時に順教尼に師事して以後は寝食を共にし、25歳で出家得度し、順教尼が亡くなった後はその意志を継いで、身体障がい者の自立支援団体「この花会」を引き継ぎぐとともに書や絵画の創作活動も続け、世界身体障害者芸術家協会名誉会員に選ばれています。
現在の仏光院の境内には順教尼の念持仏だったという本尊・千手観音を安置する本堂のほか、順教尼の草庵跡や順教と等身大といわれる慈手観音像、親交があったという京都では花街・祇園をこよなく愛したことで知られる歌人・吉井勇(よしいいさむ 1886-1960)の歌碑「そのむかし 臙脂(えんじ)を塗りし くちびるに 筆をふくみて 書く文ぞこれ」などがあり、また勧修寺の納経所にもなっていて、閑散期は勧修寺の御朱印もここで授与されているといいます。