京都市南区上鳥羽鉾立町、地下鉄烏丸線十条駅に近い「久世橋通新町」交差点前に本社を置くゲーム会社。正式社名は「任天堂株式会社」、英文社名「Nintendo Co., Ltd.」。
元々は花札やトランプの製造会社としてスタートし、家庭用レジャー機器の製造などを経て、「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」の爆発的なヒットで家庭用ゲーム機市場を開拓。並行してマリオやゼルダなどの人気キャラクターを生み出しつつ人気ゲームソフトを次々と世に送り出し、現在も携帯型ゲーム機や据え置き型ゲーム機のハードウェア・ソフトウェアの開発・製造・販売で世界的に名を知られる京都を代表する企業の一つです。
その創業は明治中期の1889年(明治22年)9月23日のことで、山内房治郎(やまうちふさじろう 1859-1940)が京都市下京区正面通大橋西入、鴨川に架かる正面橋の西詰付近に小さな店を構え、花札の製造に着手したのがはじまり。
家業の石灰問屋「灰岩」でセメントを商うかたわら、自らの工芸家としての腕を活用して花札の製造販売を始めたもので、1902年(明治35年)にはトランプの製造も開始し、花札と客層が同じであり、またトランプや花札のケースがタバコの箱とほぼ同サイズだったことに着目。行商から一代で「東洋の煙草王」となった村井吉兵衛が創業した当時日本有数の民間たばこ会社・村井兄弟商会と提携することで、タバコの流通網を利用して花札やトランプの販路を拡大し全国展開を実現し、業界での地位を確立していきました。
1929年(昭和4年)に初代の婿養子である山内積良(やまうちせきりょう 1883-1949)が2代目店主に就任すると、1933年(昭和8年)に合名会社「山内任天堂」が設立され、生産の合理化や経営効率の改善が進められますが、この時代に社屋として使用されていた建物は「任天堂創業の地」に残る歴史的建造物として現在まで伝えられていて、2022年春には宿泊者以外でも利用できるレストランを併設するホテルにリノベーションされています。
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)11月には、合名会社山内任天堂の販売部門として東山区今熊野東瓦町に「株式会社丸福」が設立され、かるたやトランプの自主流通が開始され、これが後の「任天堂株式会社」となります。
ちなみに丸福とは初代が山内家に養子に入る前の福井家の屋号で、その後は山内家の屋号として使われ、任天堂の登録商標となり、製造された花札のパッケージや札には古くから「丸福」の印が表記されているといいます。
そしてこれと同じ年、早稲田大学専門部法律科在学中に任天堂の取締役となり、その2年後に病気で倒れた2代目の後を継ぐこととなるのが2代目の孫にあたる山内溥(やまうちひろし 1927-2013)ですが、これは山内溥の父親が経営者としての素質に欠けた遊び人で後に出奔し、後継者とはならなかったためで、1949年(昭和24年)、若干22歳にして第3代社長に就任することとなります。
山内溥は就任してほどなく積極的な社内改革を行い、1950年(昭和25年)に山内任天堂の販売会社であった「株式会社丸福かるた販売」を「任天堂かるた株式会社」と社名変更して山内任天堂よりかるたなどの製造業務を継承。
1951年(昭和26年)には2つの事業体を一つに統合する形でかるたを意味する言葉だという「骨牌」の名を持つ「任天堂骨牌株式会社」を設立しました。
更に1952年(昭和27年)10月には花札屋に工場は必要ないという職人たちの反対を押し切り、製造化の近代化を進めるために京都市内に分散していた製造場を一つにまとめる形で東山区福稲上高松町に工場を新設。
一方で社内の労働争議についてもその激しさから体調を崩しつつも粘り強く交渉を進めて1955年(昭和30年)には一応の解決を見ることができ、1959年(昭和34年)9月には東山区福稲上高松町の地を本社と定めました。
ちなみにこの2代目の本社は2000年(平成12年)11月に南区上鳥羽にある現在の3代目の本社地に移転するまで使用され、現在は「任天堂京都リサーチセンター」として利用されています。
この点、3代目の山内溥はアイデアマンとして知られ、新設した工場では1953年(昭和28年)に日本最初のプラスチック製トランプの開発に成功し、紙製トランプの折れたり染みがついたりしやすいという欠点を克服したほか、1959年(昭和34年)には米国のウォルト・ディズニー・カンパニーと契約して「ディズニートランプ」を発売。
それまでは博打の道具としての印象が強かったトランプを子供や家族のための玩具(おもちゃ)として再認識させることで新たな層を取り込むことに成功し、またこの頃急速に普及しつつあったテレビのCM広告でディズニートランプを使った手品のCMを流すことで、爆発的なヒット商品となります。
また1960年(昭和35年)にはトランプは花札の大量生産機を独自に開発することで大幅なコスト削減にも成功。ディズニートランプの成功による売上増も手伝って会社の業績は大きく伸び、1962年(昭和37年)には大阪証券取引所二部と京都証券取引所への上場も果たしました。
しかしその最中の1958年(昭和33年)11月のこと、当時世界最大といわれたアメリカのトランプ会社であるU.Sプレイング・カード社の工場を視察し、最大手にもかかわらずその規模が想像以上に小さかったことに衝撃を受け、カード会社としての将来に不安を感じた3代目は経営の多角化の道を探ることとなり、事業を多様化したいとの思いから、1963年(昭和38年)にはかるたを意味する「骨牌」を取り、現在の「任天堂株式会社」へと社名を変更。
1960年(昭和35年)に「ダイヤ交通株式会社」を設立しタクシー事業に進出したのを皮切りに、1961年(昭和36年)には「三旺食品株式会社」を設立してインスタント食品を開発した他、ホテル事業などにも進出したものの、いずれもノウハウ不足などで失敗に終わり後に撤退を余儀なくされ、また昭和30年代後半には花札やトランプの需要が激減したことで経営危機に直面するなど一時は苦境に立たされますが、1965年(昭和40年)に入社した横井軍平(よこいぐんぺい 1941-97)を新設の商品開発部の主任に据えると、売上の大半を占めていた花札・トランプなどのカード類に代わる新感覚の新しい室内玩具を次々と生み出して売り上げを伸ばしていき、カード会社からの脱却を図っていくこととなります。
この点、横井は当初は設備の保守点検という簡単な仕事を任されていましたが、仕事があまりにも暇だったため、暇つぶしで会社の工具を使って自前のおもちゃを作って遊んでいた所、それをたまたま目にした社長が商品化を命じ、1966年に「ウルトラハンド」として商品化させたところ、当時10万個売れれば大成功といわれた時代に120万個を売る大ヒットを記録。
その後も任天堂開発第一部部長として「ゲーム&ウオッチ」や「ゲームボーイ」「バーチャルボーイ」などの携帯型ゲーム機の開発に携わり、「マリオ」の生みの親として知られその後の任天堂のゲーム開発の主役となる宮本茂と並んで任天堂を世界的な大企業へと成長させた立役者の一人で、既存の技術を既存の商品とは異なる使い方をすることで、開発コストを低く抑える形でまったく新しい商品を生み出すという「枯れた技術の水平思考」という独自の哲学を持って開発に取り組んだことでも知られる人物です。
商品開発力の必要性を痛感させられた山内は、その後は従来の玩具にはない新しい遊び方や楽しみ方をエレクトロニクス技術を使った玩具に求めていくこととなります。
1970年の光線銃SPのヒットを受けて1973年(昭和48年)にはその発展版ともいえる大型レジャー施設「レーザークレー射撃システム」をオープンし施設の全国展開を試みますが、折からの第一次オイルショックで計画の撤回が相次ぎ、多額の負債を抱えて再び倒産危機に直面。
しかしそこで培われた技術や販売ルートを活かしてアーケード事業を展開し一定の成功を収めると、今度はコンピューターゲームの開発に着手。1978年(昭和53年)にタイトーが発売した「スペースインベーダー」が日本中で大ブームを巻き起こすと業務用テレビゲーム機(アーケードゲーム機)を開発し、「スペースフィーバー」でこれに参戦。1980年(昭和55年)にはアメリカにも進出していますが、ここで一つの事件が発生します。
ある日のこと、アメリカの現地法人で大量の在庫を抱える問題が発生し、売れ残った基盤を使って新しいアーケードゲームを作ることで損失を取り戻せないかと、京都本社の開発部に救済の依頼が届きます。
しかし当時の横井はゲームウォッチの開発の真っ最中でそのような余裕はなく、そこで横井が推薦したのが、前述の横井とともに任天堂を世界的な大企業へと成長させた立役者の一人で、「マリオ」の生みの親として知られその後の任天堂のゲーム開発の主役となる宮本茂(みやもとしげる 1952- )でした。
当時の宮本はまだ新卒のデザイナーであり、ソフト製作の実績は全くなかったといいますが、横井の推薦に応える形で作られ1981年7月9日に稼働が開始された「ドンキーコング」は、ドンキーコングに捕らわれたレディをキャラクターが救い出すという今でいうアクションゲームの一種で、建設中の工事現場を舞台に、構成の異なる4つのステージを攻略するというストーリー性が斬新だったほか、ジャンプアクションを軸にした最初のゲームともいわれ、世界的な大ヒットとなります。
またこのゲームの開発にあたっては当初はアメリカの人気アニメ「ポパイ」を主人公のキャラクターに据えたゲームを作るはずでしたが、後になって版権が取れないことが判明したため、ゲーム内容はそのままにキャラクターだけを変することとなり、そこで新たに誕生したのが今や世界的な人気を獲得している「マリオ」だったといいます。
そしてアーケードゲームで成功を収める一方で、家庭用のテレビゲーム機の開発も進められ、1980年には携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売。通勤中のサラリーマンの息抜きのためという開発コンセプトでしたが、シンプルでありながらも奥深いゲーム性で子供たちを中心に爆発的な人気を集め、8年間で約70機種を展開し4,800万台以上の売り上げを記録したといいます。
また現在の任天堂のテレビゲーム機のスタンダードにもなっている「十字キー」はこのゲームウォッチの時代に考案されたものです。
更にこの頃にアーケードゲームを家庭でも楽しめるようにと、据え置き型ゲーム機として開発がスタートしたのが後に「ファミコン」の略称で社会現象にもなった「ファミリーコンピュータ」でした。
そもそも日本の家庭用テレビゲーム機は、1975年(昭和50年)にエポック社から発売された「テレビテニス」がその先駆けでしたが、あらかじめ本体側に内蔵されたゲームのみ遊べるというもので、内容もいたってシンプルなものではあったものの、当時はまだテレビはテレビ番組を見るものというのが当たり前の時代であった中で、画面を使ってキャラクターを動かしてゲームを楽しむというのは斬新なアイデアであったといいます。
その後、任天堂も三菱電機との共同開発でテレビゲームの開発に着手し、1977年(昭和52年)には初の家庭用テレビゲーム機となる「テレビゲーム15」「テレビゲーム6」を発売し大ヒットを記録したのを経て、1981年11月、山内溥社長のゲーム&ウオッチの次はテレビゲームだと開発チームに命じたことから、アーケードゲームの開発チームであった開発第二部の上村雅之(うえむらまさゆき 1943-2021)を開発責任者に開発が進められ、1983年7月15日に発売となります。
当初ゲーム機本体と同時発売されたゲームソフトはいずれもアーケードゲームからの移植である「ドンキーコング」「ドンキーコングJR」「ポパイ」の3本でしたが、他のゲーム機との差別化を図るためにサードパーティの参入を認めたことで、「ロードランナー」のハドソンを皮切りに「ゼビウス」のナムコ、その後もアイレムやエニックス、コナミなどが参入、サードパーティ製ソフトの大ヒットも手伝って本体の売り上げを伸ばし、家庭用ゲーム市場のシェアの約9割を押さえることとなります。
1985年9月13日には「スーパーマリオブラザーズ」が発売され、クッパにさらわれたキノコ王国のピーチ姫を救うため、配管工のマリオとルイージ兄弟が陸海空や地下といった多彩なコースを冒険しながら攻略していくというストーリー性が子供たちに受け、マリオをはじめとするキャラクターの魅力も手伝って国内で681万本、全世界で4,024万本を販売するという大ヒットとなり、ファミコン人気を決定付けることとなりました。
その後も爆発的に普及が進み、1987年(昭和62年)には累計出荷台数1000万台と一家に一台に迫る勢いを見せ、サードパーティ製ソフトからもヒット作が次々と登場し、中でも人気漫画家・鳥山明がキャラクターデザインを務め「ドラクエ」の愛称で親しまれるエニックスの「ドラゴンクエスト」シリーズは戦闘を通じてキャラクターを成長させながらストーリーを攻略していくというRPG(ロールプレイングゲーム)の先駆けとして人気を集め、中でも1988年(昭和63年)発売の「ドラゴンクエストIII」はゲームソフトを求めて長蛇の列ができ、中には学校を休んで買いに行ったりソフトのひったくりや抱き合わせ販売などのトラブルが続発するなどの社会現象にもなったことで知られています。
また1989年(平成元年)には携帯ゲーム機「ゲームボーイ」を発売し、屋外でテレビゲームが楽しめるようになり、その後もNECのPCエンジンやセガのメガドライブとライバル社の新たなゲーム機の投入に対しては1990年に新たなゲーム機として「スーパーファミコン」を発売。
1990年代のソニーのプレイステーション(プレステ)の発売に際しては1996年には64bitのテレビゲーム機「NINTENDO(ニンテンドウ)64」、2001年に「ニンテンドーゲームキューブ」を発売するも、プレステの勢いに押されゲーム業界での主導権を失いかけますが、2004年にペン入力対応の携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」、そして2006年には「家族で楽しめる」をコンセプトに独自コントローラ付きの「Wii(ウィー)」を発売することで、これまでゲームに縁が薄かった中高年や女性層などのゲーム初心者の取り込みに成功、市場を拡大することで、再びゲーム業界のトップへ返り咲いています。
2017年(平成29年)にはスマホによるゲーム市場が急拡大する中で持ち運べる家庭用のテレビゲーム機「Nintendo Switch」を発売するとともにインターネットによるコンテンツの販売にも取り組み、2018年(平成30年)にはオンラインサービス「Nintendo Switch Online」を開始。
近年ではNintendo Switch用ゲームソフトでどうぶつの森シリーズの第7作目である「あつまれ どうぶつの森(あつ森)」が2020年3月20日に発売され、新型コロナによる外出自粛という社会情勢の中、巣ごもり需要で空前の大ヒットを記録しています。
またゲーム機本体やゲームソフトの開発とは別に、マリオを筆頭にルイージ、クッパ、ピーチ姫、リンク、カービィ、ポケットモンスターのピカチュウ、ヨッシーなど任天堂のゲームソフトに登場するキャラクターは世界的にも広く知られているものが多く、2014年よりキャラクターIPのゲーム外での活用が進められていて、その典型例として2021年(令和3年)3月18日には大阪市此花区のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)内にマリオの世界を全身で体験することができるテーマパーク「スーパー・ニンテンドー・ワールド」が稼働を開始しています。
最後に社名の由来については明確には分かっていないものの、3代目社長の山内溥は高橋健ニ著「任天堂商法の秘密─いかにして"子ども心"を掴んだか(1986年・祥伝社刊)」の中で、任天堂の名の由来のごとく、人事を尽くして天命を待つのではなく、単純に「運を天に任せる」という発想を積極的に取りたいと発言しています。