京都市伏見区淀新町、京阪淀駅や京都競馬場の南方、大阪から京都へ向かう京街道の途中にある淀の入口、近年は河津桜の名所として知られるようになった「淀水路」の水路沿いにある浄土宗の寺院。
山号は壽豊山で、本尊は阿弥陀如来ですが、閻魔堂に安置されている「新選組ゆかりの閻魔王」でよく知られているほか、江戸時代から多くの人々の信仰を集める供養の寺で、幕末には戊辰戦争の最初の戦いとなった「鳥羽伏見の戦い」にて幕府軍・新選組・会津藩などの旧幕府軍(東軍)の野戦病院になったことでも知られている寺院です。
創建の詳しい経緯は不明なものの、寺の歴史は古く、創建から450年以上が経過しているといい、当初は代官町(現在の京都競馬場の近く)にあったといいます。
そして江戸初期の1637年(寛永14年)、淀城の第2代目の城主で淀藩初代藩主でもある永井尚政(ながいなおまさ 1587-1668)が淀城の城下拡張のために木津川を約200m南の現在の川顔と美豆(淀川顔町と淀美豆町)の間に付替えて淀新町を造成すると、それまで代官町にあった長円寺、高福寺、東運寺の3つの寺院は現在に移されたといい、3か寺が軒を連ねたことから「淀の三軒寺」と呼ばれるようになったといい、更に江戸中期の宝暦年間(1751-64)に書かれた「淀真砂子」には武家や町家といった方々の信仰を集め、正月16日、7月16日の縁日には鉦盤を鳴らし、善男善女が高張提灯の中を参詣し商人が来て店を張ったと記されています。
幕末の1868年(慶応4年)1月3日、明治新政府と旧幕府軍の間で繰り広げられ、明治維新を決定づけた「鳥羽伏見の戦い」が開戦されると、鳥羽と伏見で敗退した旧幕府軍は淀へと撤退を開始。
鳥羽方面の桑名兵や京都見廻組などを中心とした旧幕府軍は富ノ森、伏見方面の会津藩や新選組などを中心とした旧幕府軍は淀千両松に布陣してそれぞれ新政府軍を迎撃するも更なる敗退を重ね、淀城に入城し戦況の立て直しを図ろうとしますが、淀藩主・稲葉氏は旧幕府軍の入城を城門は閉ざして拒否。
この後、幕府軍は南の八幡男山・橋本方面へと撤退を余儀なくされますが、淀川の砲台を守備していた藤堂氏の津藩の裏切りもあって更なる敗北を喫し、全軍大坂城へと撤退することとなります。
この淀での戦闘は鳥羽伏見の戦いでも最大の激戦となり、新選組隊士の三分の一が戦死したといわれていますが、長円寺は淀の戦いの中で幕府軍の野戦病院となり、負傷者・戦死者が次々と運ばれたといいますが、これは閻魔様の前では戦をすることはできないとして長円寺は戦場にならず、結果幕府軍の治療・戦死者の供養を続けることができたのだといいます。
「鳥羽伏見の戦い」での敗北の後、生き残った新選組の隊士たちは榎本武揚(えのもとたけあき 1836-1908)が率いる幕府所有の軍艦・開陽丸で江戸へと撤退しますが、後に新選組副隊長の土方歳三は榎本に、鳥羽伏見の戦いの最中に長円寺が幕府軍を助けた寺であると話をしたと伝えられていたといいます。
榎本は幕臣として徹底抗戦し箱館戦争まで戊辰戦争を戦いながらも、降伏の後は新政府でも重用されて活躍しましたが、その晩年の1907年(明治40年)には榎本により書かれたという幕府軍の戦死者慰霊碑「戊辰役東軍戦死者之碑」が長円寺に建立されており、現在もなお法要で供養が行われているといいます。
その他にも同寺には新選組や幕府軍も拝んでいたという閻魔王の像が安置されている閻魔堂の横と墓地内に「鳥羽伏見の戦い」における幕府軍戦死者の墓地を示す「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の石碑が建てられているほか、観音堂内に「鳥羽伏見の戦い」の幕府軍戦死者の位牌も安置されているといい、また近年になって山門の手前右側には「鳥羽伏見の戦い 幕府軍野戦病院の地の碑」も建てられるなど、「鳥羽伏見の戦い」ゆかりの地として知られるようになっています。