京都市南郊の伏見区竹田に位置する真言宗智山派の寺院。
境内に接して鳥羽天皇陵と近衛天皇陵の2つの陵のほか、鳥羽離宮ゆかりの史跡が数多く残されている皇室ゆかりの寺院です。山号はなく、本尊は阿弥陀如来。
一帯は平安後期に「鳥羽離宮(鳥羽殿)」が建てられて「院政」の舞台となった場所。
その「東殿」には大きな池があり、鎌倉時代の史書「百錬抄」によれば、1137年(保延3年)、鳥羽上皇が御堂(仏堂)を建立し阿弥陀三尊像を安置したのがはじまりとされています。
当時は「御堂」と呼ばれていたが、鳥羽上皇が没した後「安楽寿院」と称するようになり、安楽寿院には日本各地の膨大な荘園が寄贈され、これらは安楽寿院領(後に娘の八条院暲子に引き継がれて八条院領と称されるように)として、皇室(大覚寺統)の経済的基盤となったといいます。
その後、寺は1296年(永仁4年)と1548年(天文17年)に火災、また1596年(慶長元年)には地震の被害を被っており、創建当初の仏堂などは現存していません。
そして慶長年間(1596-1615)には豊臣秀頼により復興されていますが、その後再び荒廃し現在の安楽寿院は、6つ存在した子院のうちの前松院が寺籍を継いでいる寺院です。
現在の境内には本尊を安置する阿弥陀堂阿弥陀堂(薬師堂とも)のほか、弘法大師空海像を安置する大師堂、書院、庫裏などがあり、いずれも近世以降のものでですが、時代を経て離宮が廃れていく中で、安楽寿院は当時の姿を残す遺構として貴重な存在です。
また境内には平安末期・藤原時代の作である釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊の石造三尊像「三如来石仏」が伝わっています。
江戸時代に出土したと伝えられ、このうち保存状態のよい阿弥陀三尊像は京都国立博物館に寄託され、釈迦三尊と薬師三尊は大師堂の手前にある小屋にて拝観が可能となっています。
この他に境内に隣接するようにしてある鳥羽天皇陵と近衛天皇陵は、ともに元々は「本御塔」と「新御塔」として建立された三重塔で、天皇の陵墓に多宝塔を用いる稀有な例とされています。
まず「本御塔(ほんみとう)」は阿弥陀堂建立の2年後の保延5年(1139年)、鳥羽上皇(のち鳥羽法皇)が生前に造る墓である寿陵として右衛門督・藤原家成に造らせたもので、法皇が1156年(保元元年)に没した際に墓所とされました。
ちなみに現在の安楽寿院の本尊である「阿弥陀如来坐像」は、この本御塔の本尊として造られたものと推定されており、中央に卍のを刻むことから「卍阿弥陀」とも呼ばれ重文にも指定されています。
一方「新御塔」の方は1148年(久安4年)頃に鳥羽法皇の皇后・美福門院のために建てられますが、美福門院はその遺言により高野山に葬られており、新御塔には鳥羽法皇と美福門院との子で夭折した近衛天皇が葬られました。
そしていずれも度重なる火災などにより造営当時の塔は現存しませんが、まず本御塔は1612年(慶長17年)に仮堂が建てられた後、幕末の1864年(元治元年)に瓦葺き宝形造屋根の仏堂として再興され安楽寿院西側に現存しており、「鳥羽天皇安楽寿院陵」として宮内庁が管理しています。
またもう一方の「新御塔」は豊臣秀頼により1606年(慶長11年)に多宝塔形式で再建されたものが安楽寿院南側に現存しており、「近衛天皇安楽寿院南陵」としてやはり宮内庁が管理しています。
この他に幕末の「鳥羽・伏見の戦い」においては、安楽寿院が官軍の本営となったことから、鳥羽伏見の戦いの史跡にもなっています。