「鳥羽離宮(とばりきゅう)」は、京都市南区上鳥羽および伏見区下鳥羽・竹田・中島の一帯、現在の名神高速「京都南インター」の南東付近にあった上皇の住む院御所のこと。
平安後期に白河上皇が建造し、その後は鳥羽上皇、後白河上皇を経て、鎌倉時代の鳥羽上皇まで引き継がれ、いわゆる「院政」の舞台となった場所で、別名「鳥羽殿(とばどの)」「城南離宮じょうなんりきゅう)」とも呼ばれています。
この点「鳥羽」の地は、朱雀大路の延長線上、平安京の羅城門からまっすぐ南へ約3km進んだ付近にあり、山陽道が通るほか、鴨川と桂川の合流地点にあり、朱雀大路を延長した「鳥羽作道」を通じて平安京の外港としての機能を持つなど、交通および物流の要衝であった場所です。
そしてその一方で豊かな水に恵まれた風光明媚な場所でもあり、古くから貴族たちが別邸を建て、狩猟や遊興を楽しんでいたといわれています。
その後、白河上皇の時代からは鳥羽は経済・物流の拠点としてだけではなく、いわゆる「院政」が敷かれて政治の中心地にもなった場所でした。
ちなみにこの地に離宮を築いたのは、都で大きな影響力を持っていた藤原摂関家の影響を避けるためともいわれています。
近臣である藤原季綱より鳥羽の別邸を献上された白河上皇は、大規模な拡張工事を行い、この建物は後に「南殿」と呼ばれました。
そして1086年(応徳3年)から開始された離宮の造営はその後も続き、「北殿」「泉殿」「馬場殿」などが相次いで完成したといいます。
続く鳥羽上皇の代にも「東殿」「田中殿」の造営が行われたほか、東殿の邸内には自らの墓所として定めた「本御塔(三重塔)」と美福門院の墓所として予定されていた「新御塔」も造営され(実際には近衛天皇が葬られている)、極楽浄土が現世に築き上げられました。
このようにして数十年かけて築き上げられた鳥羽離宮は、東西1.5km、南北1km、面積180万平方メートルに及ぶ広大な敷地に、寝殿を中心とする多数の御殿や苑池、仏像を安置する御堂や堂塔までも建ち並ぶ壮大なものだったといいます。
そしてその繁栄は後鳥羽上皇のが「承久の乱」で鎌倉幕府に敗れて院政が終焉を迎えるまで続きますが、その後、南北朝の動乱の戦火によって多くの建物が焼失したこともあり急速に荒廃していきました。
このため残念ながら現在、当時の豪華な建造物は残されていませんが、現在までの発掘調査で鳥羽離宮は大きく分けて6つ、北殿・南殿・馬場殿・田中殿・東殿および泉殿・中島で構成されていたことが判明しており、鳥羽離宮関連の史跡としては「鳥羽離宮跡公園」のほか、「安楽寿院」や「城南宮」、そして白河・鳥羽・近衛の各天皇陵などがあります。
このうち最初に建設された「南殿」のあった場所に史跡公園として整備されたのが「鳥羽離宮跡公園」で、国の史跡にも指定されており、石碑や説明板などが建てられているほか、公園北側には「平家物語」にも登場する鳥羽離宮の築山跡とされる「秋の山」があり、往時を偲ばせます。
公園は周囲を苑池に囲まれた市民憩いの場で、中央のグラウンドでは野球をする子供たちの姿が見られるほか、遊具もあることから小さな子供を連れた家族連れの姿を見かけることも多いです。
その一方で一帯は幕末には「戊辰戦争」の発端となる「鳥羽伏見の戦い」が繰り広げられた行われた場所でもあり、このうち築山には新政府軍の陣が敷かれたといい、ここから数に勝る幕府軍に砲撃を浴びせて撃退したと伝わっています。
このことから園内には1912年(明治45年)に「鳥羽伏見戦跡碑」、1998年(平成10年)に「鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋」の石碑がそれぞれ建立されています。
この他にも平安京の南方を守護する「城南宮」は、馬場殿の敷地内に取り込まれて鳥羽離宮の鎮守社とされ、毎年流鏑馬や競馬が催されていたといい、現在も方除け・交通安全の社として人々に親しまれています。
また「安楽寿院」は鳥羽離宮の東殿を寺院に改めたもので、現在は真言宗の寺院ですが、当時は三重塔や阿弥陀堂、閻魔堂、不動堂、石造五輪塔なども建てられた大寺院だったといい、鳥羽伏見の戦争では官軍(薩摩軍)の本営にもなったといいます。
この他に隣接する近衛天皇となっている多宝塔は豊臣秀頼が再興したもので、建造物のある天皇陵は珍しいといいます。
最後に「田中殿」は鳥羽上皇の皇女・八条院のために建てられ御所で、現在は公園として整備されているほか、史跡跡を示す石碑も建てられています。
これらの鳥羽離宮跡をめぐる史跡めぐりも距離約4.5km、所要時間約3時間かかりますがおすすめです。