京都市東山区本町、臨済宗東福寺派の大本山・東福寺の主要伽藍の北東、本坊庫裏の背後から東福寺三名橋の一つ「偃月橋(えんげつきょう)」を渡った正面に位置する東福寺の塔頭寺院。
本尊は宝冠釈迦如来。
鎌倉後期の1291年(正応4年)、南禅寺の開山でもある東福寺3世・無関普門(大明国師)(むかんふもん(だいみんこくし) 1212-91)の住居として創建されたのがはじまり。
無関普門は鎌倉後期の臨済宗の僧で、信濃国に生まれ、越後(新潟県)や上州(群馬県)で修行した後、京に上り東福寺の開山である円爾弁円(えんにべんえん 1202-80)に師事してその法を嗣ぎ、後の1251年(建長3年)、40歳の時に入宋して浄慈寺(じんずじ)の断橋妙倫の(だんきょうみょうりん)印可を受け、約10年の滞在の後に1262年(弘長2年)に帰国。
帰国後は各地を歴住し、1281年(弘安4年)に東福寺の創建者である九条道家(くじょうみちいえ 1193-1252)の四男・一条実経(いちじょうさねつね 1223-84)に請われ東福寺3世を継ぎました。
その後1291年(正応4年)に第90代・亀山上皇(かめやまじょうこう 1249-1305)の帰依を得てその離宮「禅林寺殿」を「太平興国南禅寺」とし、その開山として招かれますが、80歳の高齢であったことからその年の秋に発病して東福寺へと戻り、その住居としたのが龍吟庵ですが、寺が創建されて間もない同年12月にその生涯を閉じ、その没後は塔所(墓所)とされ、現在は東福寺に25ある塔頭寺院のうちの第一位に位置づけられています。
境内は亡き師を祀る「開山堂」に加え、開山堂の手前に住持の住居兼客殿である「方丈」、そして方丈の正面右手に台所兼一般僧の住居である「庫裏」という塔頭寺院の典型的な構成となっていて、このうち「開山堂」は1975年(昭和50年)の建造で内部には鎌倉期の作で国の重要文化財に指定されている大明国師坐像を安置しており、また「庫裏」は江戸初期1603年(慶長8年)の建築で、表門とともに国の重要文化財に指定されています。
そして「方丈」は室町初期の1387年(嘉慶元年)に建造されたもので、京の町を焼け野原にした「応仁の乱」の兵火を唯一免れた現存最古の方丈建築として1963年(昭和38年)7月に「国宝」に指定。
単層入母屋造、こけら葺で、室町時代に武士の住居建築として発展した「書院造」と平安時代からの住居建築である「寝殿造」の双方の特徴が残り、両者の手法が融合した優美な名建築であり、また入口の「龍吟庵」の文字は室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ 1358-1408)が書いたものだといいます。
もっとも龍吟庵は近代に入ると荒廃していたようで、とりわけ明治初期の「神仏分離令」に伴う「廃仏毀釈」によって方丈の周囲の庭園は手入れも満足になされず荒れ放題であったといいますが、1964年(昭和39年)、その現状を知った昭和を代表する作庭家・重森三玲(しげもりみれい 1896-1975)は、自ら寄付金を集めて龍吟庵の庭園「清光苑(龍吟庭)」を新たに作庭することとなります。
方丈の周囲を囲むようにして東・西・南の3つの方面にそれぞれ個性的な枯山水の庭が造られていて、まず最初に姿を現す南庭は「無の庭」と呼ばれ方丈の前庭として白砂のみのシンプルな構成で仕上げられ、悟りを表現しているといいます。
続く西庭は「龍の庭」と呼ばれ、龍吟庵の寺号にちなんで龍が海から顔を出し、黒雲に乗って円を描きつつ昇天していく姿を石組みによってダイナミックに表現するとともに竹垣を珍しい稲妻模様にするなど、重森三玲のモダンな造形がよく表れており一番の見どころとなっています。
そして最後にお目見えする東庭は「不離の庭」と呼ばれ、鞍馬の赤石を砕いたという珍しい赤砂の枯山水で、大明国師が幼少の頃に熱病にかかって山中に捨てられた際に2匹の犬が国師の身を狼の襲撃から守ったという故事を石組みで表現しているといいます。
通常非公開の寺院ですが、毎年春の3月中旬の「涅槃会」の時期と、秋の11月から12月初旬にかけて一般公開されており、また数年ごとに「京の冬の旅」でも公開されることがあるといい、中でも紅葉の美しい時期は石庭を真っ赤な紅葉が彩り、美しさに花を添えてくれます。