京都市北区紫野大徳寺町、堀川北大路より約400m西に大伽藍を構える臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の20余りある塔頭寺院の一つで豊臣秀吉の名軍師として知られる黒田官兵衛ゆかりの寺院。
この点、黒田官兵衛(くろだかんべえ 1546-1604)は正式名は黒田孝高(くろだよしたか)といい、1546年に播磨国(現兵庫県)の姫路城主・黒田職隆の長男として生まれ、22歳で家督を継いで父と同様に小寺家の家老の座につきますが、織田信長の中国進出に与して羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍、調略や他大名との交渉などに手腕を発揮し、同じく秀吉に仕えた竹中半兵衛とともに「天才軍師」と称されました。
「本能寺の変」の直後の有名な「中国大返し」など数々の戦功によって1587年(天正15年)の九州征伐後には豊前6郡12万石を領し、1589年(天正17年)には剃髪して「如水」を号するとともに家督を子の長政に譲り、1590年(天正18年)の「小田原征伐」にも活躍して秀吉の天下統一に貢献。
秀吉は自身の死後に天下を取るのは官兵衛だと評し恐れていたともいい、その後は距離を微妙に測りつつ、最終的には九州・福岡藩52万石の礎を築き上げましたが、卓越した知略の持ち主である一方で歌や茶会を愛する文化人であるとともにキリシタン大名でもあった人物で、その生涯は2014年(平成26年)のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」でも描かれています。
「龍光院」は江戸初期の1606年(慶長11年)、初代筑前福岡藩主・黒田長政(くろだながまさ 1568-1623)が父・黒田孝高(官兵衛・如水)の菩提を弔うため春屋宗園(しゅんおくそうえん 1529-1611)を開山として創建。
父の墓を造るとともに黒田利長、黒田一成を作事奉行に方丈、書院、庫裏を建て、父の法名「龍光院殿如水円清大居士」より「龍光院」と称したのがはじまり。
当時から高松宮好仁親王、小堀遠州、松花堂昭乗などの一流の文化人が集う寛永文化の発信地で、創建当時の規模は現在の寺域の3倍ほどの広大なもので、数多くの建物があったったといいますが、明治初期の新政府による神仏分離令に伴う「廃仏毀釈」によって、方丈や庫裏などが破却されて規模を縮小し現在に至っています。
残された建物のうち「書院」は国宝、「昭堂(本堂)」「寮及び小庫裏」「盤桓廊」「兜門」「禹門」の5棟が重要文化財に指定されており、いずれもが江戸前期の1650年(慶安2年)頃の建築で、意匠的にも優れ、禅宗寺院塔頭の構成を知る上で貴重な存在だといいます。
このうち「書院」については幾度かの改築が行われており、書院の北西隅に接続し一の間に続く四畳半台目の茶室「密庵(みったん)」も元々は独立した茶室であったものを後に書院に取りこんだものであるといい、小堀遠州の作で江戸前期における茶室の代表的遺構として国宝に指定されています。
また開山の春屋宗園が当院で隠棲して間も無く亡くなったため、実質的な開祖とされるのが江月宗玩(こうげつそうがん 1574-1643)ですが、江月は大坂堺の豪商・天王寺屋の出身で千利休・今井宗久とともに茶湯の天下三宗匠と称された津田宗及(つだそうきゅう ?-1951)の次男であったことから、龍光院には彼によってもたらされた天王寺屋ゆかりの名宝・寺宝が数多く伝わっているといいます。
当院の寺宝としては、国宝の黒色で虹の様に煌めく「燿変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)」のほか、中国宋時代の禅僧・密庵の墨蹟である「密庵咸傑墨蹟(みつたんかんけつぼくせき)」、中国元から来日した禅僧・竺仙梵僊の墨蹟である「竺仙梵僊墨蹟(じくせんぼんせんぼくせき)」などが有名ですが、中でも燿変天目茶碗は龍光院の他には大阪の藤田美術館と静嘉堂の世界中に3点しか現存しないという大変貴重なものだといいます。
以上のように茶室「密庵」をはじめ、国宝・重要文化財の建物や美術品を多数所蔵している反面、観光を目的とした拝観は一切受け付けておらず、特別公開も行わっていない拝観謝絶の寺院ですが、院内では茶の湯に関する書物の勉強会と呼ばれる「看松会(かんしょうかい)」、親子で作務、坐禅ののち、論語の勉強をする「寸松塾(すんしょうじゅく)」、そして開祖・江月宗玩の禅語録「欠伸稿」を読み解くために開催されている勉強会「欠伸会(かんしんかい)」のいわゆる「龍光院三会」などの定期的な催しなどが開催されているそうです。