京都市右京区龍安寺山田町、住吉山の裏、西側を仁和寺、東側を龍安寺に挟まれた位置にある知恩院を総本山とする浄土宗知恩院派の寺院。
山号は獅子吼山(ししくさん)で、本尊は「御室大仏」とも呼ばれる阿弥陀如来座像で、寺を創建した関通にちなみ「関通さん」とも呼ばれて親しまれています。
江戸中期の1758年(宝暦8年)の春、浄土宗の僧・関通(かんつう 1696-1770)が北野下ノ野森、北野天満宮のすぐ南のあたりに念佛道場として創建したのがはじまり。
関通は江戸時代の僧で、尾張国(愛知県)に生まれ、12歳で出家の後、江戸・増上寺で祐天(ゆうてん)について修行し、尾張へ帰国の途中、箱根の関所で通行手形を見せる旅人の往来を見て「南無阿弥陀仏という手形」があれば人間界の苦しみという関所も必ず超えられると悟り、以降は「関通」と名乗って江戸と尾張、そして京都を行き来して念仏を広めたといい、1725年(享保10年)より諸国を巡って16ほどの寺院を創建し、約1500人を得度させ、約3000人に円頓戒を授けたといわれています。
当初は御所東の東三本木に1756年(宝暦6年)に自身が創建した「轉輪寺(現在の三本木円通寺)」にて專修念仏を説いていたといいますが、信者が増え手狭になり、また阿弥陀如来は西方に祀られるべきとの考えから候補となるべき場所を探していたところ、北野の地がその地にふさわしいとして既に廢寺となっていた円通寺を譲り受け、様々な人々の帰依を受けて殿堂や庫裡を竣工し、新たに造立した阿弥陀如來を本尊とし「轉法輪寺」と名付けました。
その後、大正時代に入ると関通の時代には京の西の果てであった北野の地も宅地化して町中となったため、更なる西方の地を求めて御室へと移転することとなり、1929年(昭和4年)、18世・仁誉俊孝の時に元住持で知恩院に上り僧として最高位である大僧正となった孝誉現有(1832-1934)など多くの援助により移転し現在に至っています。
本尊は、本堂に安置されている「阿弥陀如来坐像」。
北野の地に創建された1758年(宝暦8年)に新彫されて開眼供養が行われたもので、光背の中央には第115代・桜町天皇(さくらまちてんのう 1720-50)の追福の為に納められたという鏡が飾られ、胎内には天皇直筆の名号や天皇の生母・新中和門院(しんちゅうかもんいん 1702-20)の祈願文、関通の念持仏なども納められたといいます。
座像でありながら高さが有名な奈良の大仏の約15mの半分にあたる2丈4尺=約7.5mもあり、京都で一番大きな木造仏としてその並外れた大きさから「御室大仏(おむろだいぶつ)」とも呼ばれて親しまれているといい、昭和初期に寺が北野から御室へ移転される際には、あまりの大きさに嵐電の路面電車の架線が邪魔になることから、架線を切る計らいがされたというエピソードも残されています。
その他にも本尊の真後ろの厨子内には子供の姿で裸のままであることが全国的に珍しいという「裸形阿弥陀如来像」が安置されていて、天智天皇の誕生にまつわる伝承から安産守護のご利益があるといわれてい、また釈迦の誕生から入滅までの様子を描いた「釈迦大涅槃図(しゃかだいねはんず)」は1764年の作で縦5.3m、横4.9m、3年かけて損傷を修復した後、2017年(平成29年)2月に初めて一般公開され注目を集めました。
観光寺院でないため通常拝観は行っておらず、参拝に電話にて事前連絡が必要ですが、月例行事である「別時念佛会」のほか、毎年10月に開催される浄土宗京都教区の特別公開や除夜の鐘などで拝観が可能になっており、参拝にあたっては「本尊阿弥陀大佛」「大木魚」「釈迦大涅槃図」「裸形阿弥陀如来立像」「関通上人」「山下現有大僧正」「鐘楼門」の7か所を参拝する「七参り」が体験できるといいます。