京都市右京区太秦蜂岡町(うずまさはちおかちょう)、嵐電嵐山線の太秦広隆寺駅のある三条通沿いの「太秦」交差点の角に門を構える真言宗系単立の寺院。
古くは「蜂岡寺(はちおかでら)」「秦寺(はたでら)」「秦公寺(はたのきみでら)」「葛野寺(かどのでら)」「太秦寺(うずまさでら)」などの別称や、「太秦の太子堂」あるいは地名を冠して「太秦広隆寺」などとも呼ばれています。
「日本書紀」によれば、飛鳥時代の603年(推古天皇11年)、有力氏族の秦氏の長であった秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子より仏像を賜り、これを本尊として安置するため622年に「蜂岡寺」を建立したのをはじまりとし、平安京遷都以前から存在した山城国最古の寺院とされています。
そして聖徳太子ゆかりの寺院として知られ、寺伝「上宮聖徳法王帝説」によれば法隆寺(斑鳩寺)、四天王寺、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、池後寺(池後尼寺、法起寺)、および葛木寺(葛城尼寺)とともに、聖徳太子が在世中に建立したゆかりの「太子建立七大寺」の一つとされています。
この点、創建当初は弥勒菩薩像が本尊であったといいますが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、更に薬師信仰の高まりとともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となり、現在は聖徳太子が秦河勝に蜂岡寺を建立させた33歳頃の姿を写したとされ1120年(元永3年)に造られた「聖徳太子立像」が、本堂にあたる太子堂・上宮王院太子殿に本尊として安置されています。
ちなみに本尊・聖徳太子立像は秘仏で通常非公開ですが、毎年11月22日に行われる「御火焚祭(おひたきまつり)」の際に特別開帳されています。
一方、秦氏は中国の秦から朝鮮半島を経由し日本に渡来した漢民族系の帰化人といわれ、蚕養や機織、金工、治水土木のほか酒造などで先進技術を背景に莫大な富を築き、平安京建設にも協力し皇室との結びつきも強かったといわれています。
秦氏の本拠となったのが山城国葛野郡、現在の京都市右京区南部や西京区一帯で、広隆寺は秦氏の氏寺として崇敬され、平安初期の797根(延暦16年)には官寺に準ずる定額寺に列せられています。
また広隆寺以外にも蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)や、梅宮大社(右京区梅津)、松尾大社(西京区嵐山)なども秦氏に関係する神社です。
創建当時は現在地の数キロ北東にあたる北野白梅町の北野廃寺跡(平野神社付近)にあったのではないかと考えられいて、平安遷都の際かそれ以前に今の場所に移転したと考えられています。
その後、平安初期の818年(弘仁9年)と平安末期の1150年(久安6年)に焼失しており、その都度再建。
このうち最初の818年(弘仁9年)の火災の後に復興に着手したのは、秦氏出身で空海の弟子だった道昌(どうしょう)で、836年(承和3年)に当寺の別当となった後、847年(承和14年)に再建し堂塔や仏像の復興に努めたことから中興の祖とされています。
1150年(久安6年)の火災ではそれよりも短い期間で再建が進められ、1165年(永万元年)に諸堂の落慶供養が行われていますが、この時に建設された「講堂」は大きく改修されたものの現存しており、国の重要文化財に指定。
柱が朱塗りのため「赤堂」とも呼ばれる堂内中央の須弥壇(しゅみだん)には、中央に国宝の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)と左右にともに国の重文指定の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)坐像と虚空蔵(こくうぞう)菩薩坐像の両脇侍(わきじ)を従えた「阿弥陀三尊像」、更にその後方の外陣左右にいずれも国宝の千手観音(せんじゅかんのん)立像と不空羂索(ふくうけんじゃく)観音立像の巨像が祀られています。
鎌倉時代の1251年(建長3年)には、中観上人によって「桂宮院本堂」が大改修され、当初の面影を残す法隆寺の夢殿に似た形式の八角円堂が再現され国宝に指定されていますが、1730年(享保15年)に建立された本堂・上宮王院太子殿や南大門(仁王門)などその他の堂宇は、江戸時代に造営されたものが中心です。
このように創建当時の建物は残っていませんが、2度の大きな火災にもかかわらず創建以来の仏像の多くが火災を免れており、また仏画、工芸、古文書など数多くの文化財を所蔵。
1922年(大正11年)には寺宝の保管のための「霊宝殿」が建設されたほか、1982年(昭和57年)には境内の北奥に「新霊宝殿」も新設され、貴重な文化財を間近で拝観することができるようになっています。
中でも国宝に第1号として指定された「宝冠弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)」はあまりにも有名。
秦河勝が聖徳太子から授かった像ともいわれているこの像は高さ124㎝の珍しいアカマツを用いた一木造(いちぼくづくり)で、「半跏思惟」と呼ばれる美しい微笑をたたえて思索にふける姿が印象的ですが、これは釈迦の弟子である弥勒菩薩が釈迦の入滅後56億7000万年後に現れて衆生を救う未来の仏様であり、どのようにして人々を救済しようかと物思いにふけっている姿を表現しているといいます。
また広隆寺には「宝髻(ほうけい)弥勒」と呼ばれる弥勒菩薩半跏像がもう1体あり、こちらは一般的な楠の一木造で、泣いているような表情のから「泣き弥勒」とも称され、同じく国宝に指定されています。
この他に広隆寺といえば松明や篝火(かがりび)で照らされる中を特異な面をつけた摩多羅(またら)神が牛に乗ってお練りをする「牛祭」が有名で、今宮神社の「やすらい祭」とともに「京の三大奇祭」の一つにも挙げられ、毎年10月12日夜に開催されていましたが、近年は不定期開催となっています。