京都市右京区太秦組石町、京都市の西、三条通と府道131号および府道132号の交差する「太秦」交差点にある京福電気鉄道(嵐電)の駅。
この点「太秦(うずまさ)」とは周辺一帯の地名で、その昔、渡来人の秦(はた)氏はこの地に一族が移り住んで農耕や機織り・醸造を伝えたとされ、中でも秦酒公(はたさけのかみ)は多くの蚕を養い、蚕が産み出す絹を使って絹布や織物を数多く作り上げるとともにそれらを天皇に献上。
献上された品々は山のようにうず高く積み重ねられたといい、そのことを喜んだ天皇は秦酒公に対し「禹豆満佐(うずまさ)」の号を授けたといい、その称号がいつしか地名となったと伝えられていて、これに太子の「太」と秦氏の「秦」を取った「太秦」の漢字表記を当てて「太秦(うずまさ)」と読むようになったといいます。
また飛鳥時代になると子孫の秦河勝(はたかわかつ)が聖徳太子に仕えて活躍し、仏法を興隆するとともに太子から譲り受けた仏像を安置するために建立されたのが蜂岡寺、駅の向かいにある現在の「広隆寺」で、現在は聖徳太子ゆかりの寺であり国宝彫刻の第1号である弥勒菩薩半跏像が安置されている寺院として知られています。
そして当駅は一帯の地名である「太秦」と、「広隆寺」の寺名を合わせた駅名となっています。
また太秦の地は江戸時代以降は西高瀬川沿いを中心に製材工場が多く集まる地で、現在も機械、染色などの諸工業が発達する工業地域ですが、更に昭和初期には東映や松竹、大映などの撮影所が置かれて映画産業の中心地として大変な賑わいとなり、映画産業の黄金期が過ぎた現在も時代劇のテーマパークとして名高い「東映太秦映画村」がオープンして観光客の人気を集めています。
そして当駅は1910年(明治43年)3月25日、嵐山電車軌道の京都(現・四条大宮駅)~嵐山間の開通に伴い「太秦駅(うずまさえき)」として開業したのがはじまり。
その後1918年(大正7年)に電力会社・京都電燈との会社合併により京都電燈が経営する「嵐山電鉄」の駅となった後、1942年(昭和17年)3月、戦時統制によって京都電燈が解散されるのを受け、同社の京都および福井での鉄道事業を分離・引き継ぐために「京福電気鉄道」が設立され、嵐山線・北野線・叡山線の路線継承によって京福電気鉄道の駅となり現在に至っています。
そして駅名については1914年(大正3年)頃に聖徳太子ゆかりの広隆寺にちなんで「太子前駅(たいしまええき)」に改称された後、1944年(昭和19年)からは「太秦駅」に再び戻されて長らく親しまれてきましたが、2007年(平成19年)3月19日に現在の「太秦広隆寺駅」に改められています。
相対式ホーム2面2線を持つ地上駅で、駅ホームの西端から太秦の交差点および広隆寺の門前を通過し大映通り商店街入口と三条通の分岐までの約60~70mの間は三条通の路面の上を電車が通っており、西大路三条駅から山ノ内駅を経て葛野大路三条交差点までの区間と、嵐電天神川駅から蚕ノ社駅までの区間とともに、路面電車としての嵐電の景観を見ることができる貴重な区間の一つであり、とりわけ広隆寺の楼門前を電車が横切る姿は嵐電の名物の一つとなっています。
また当駅は時代劇の撮影が頻繁に行われる「東映太秦映画村」や「東映京都撮影所」の最寄駅として知られることから、手前の駅を出発し当駅のアナウンスがなされる際には車内放送にて太秦にてドラマの撮影が行われる人気時代劇の「水戸黄門」にちなみ主題歌「あゝ人生に涙あり」のフレーズが流されるのも当駅の名物の一つです(一時期「暴れん坊将軍」だった時期あり)。
その他にも駅のホームが数件の民家の玄関や店舗の入口に面している点や、ホームに仏像を販売する自販機が設置されているなど、珍しい光景を色々と目にすることができる嵐電の中でも魅力ある駅の一つです。