京都市西京区山田開町、世界遺産・苔寺(西芳寺)や鈴虫寺(華厳寺)、地蔵院(竹の寺)などにほど近い位置にある黄檗宗の寺院。
山号は葉室山で、本尊は釈迦牟尼仏坐像。
寺伝によれば、平安初期の810年(大同5年/弘仁元年)に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう 786-842)の勅願により、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん 794-864)が天台宗寺院「常住寺」として開創したのがはじまり。
その後、鎌倉中期の1261年(弘長元年)に藤原北家勧修寺派の公卿・葉室定嗣(はむろさだつぐ 1208-72)が奈良西大寺の叡尊(えいそん 1201-90)を開山に迎えて中興し、真言律宗の寺院「浄住寺」と改められました。
以後は葉室家の菩提寺として栄え、正慶2年(1323年)の絵図では本堂・鐘楼・舎利殿などの多くの堂宇が立ち並ぶ様子が描かれているといいます。
鎌倉末期の1333年(元弘3年/正慶2年)4月、六波羅探題軍と千種忠顕(ちくさただあき ?-1336)率いる後醍醐天皇軍が交戦した際に全焼し、その後も「応仁の乱(1467~77)」など度重なる兵火に遭って荒廃し、1567年(永禄10年)には全焼しますが、江戸中期の1687年(貞享4年)に葉室頼孝(はむろよりたか ?-1709)が萬福寺の木庵の高弟・鉄牛道機(てつぎゅうどうき 1628-1700)を開山として再興し、以後は黄檗宗の寺院となり現在に至っています(1689年(元禄2年)に葉室孝重による再興という説も)。
鉄牛禅師を祖とする萬福寺塔頭・長松院の長松派の筆頭寺院として黄檗宗では本山・萬福寺に次ぐ寺格を有し、境内は回廊でつながれた左右対称の伽藍や方丈庭園など、本山・萬福寺を意識した設計で整備されていて、中でも東西に伸びる参道の先に本堂、その後方中軸上に位牌堂、開山堂、寿塔が一列に並ぶ姿は京都市内では数少ない黄檗宗寺院の典型的な伽藍配置となっています。
現在の本堂は1697年(元禄10年)に再建されたもので、本尊・釈迦牟尼仏坐像および鉄牛が天竺仏を求め安置したという如意輪観音像、更に開山堂には鉄牛禅師像、観音堂には「京都洛西観音霊場」の第30番札所となっている聖観音像が安置されています。
また自然豊かな境内全域が京都市の文化財環境保全地域に指定されていて、近年まで完全非公開でしたが、2015年頃より公開される機会が増加し、秋の紅葉の見頃の時期には特別公開も開催されています。
その他にも仙台藩4代藩主・伊達綱村(だてつなむら 1659-1719)が幼少期を過ごした江戸の武家屋敷を移築したもので、有名な三大お家騒動の一つ「伊達騒動」の際に幼少の綱村を逃がすための「武者隠し」と呼ばれる仕掛けが残っている「方丈」や、方丈前の室町期の池泉式庭園、狩野永岳(かのうえいがく 1790-1867)筆の衝立「雲龍図(うんりゅうず)」などが見所となっています。