京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町、嵯峨野の地にある江戸元禄期に活躍し「去来抄」で知られる松尾芭蕉の弟子・向井去来の閑居跡。
向井去来(むかいきょらい 1651-1704)は江戸前期から中期にかけて俳人で、蕉門十哲の一人に数えられ、芭蕉がその門人の中でも最も信頼を寄せていたといいます。
向井家の先祖は南朝の征西将軍・懐良親王(かねながしんのう)に従って西下し、肥後国の菊池向井里に住しましたが、後に肥前に転じ、去来の祖父の時代に長崎に移り住みました。
そして去来の父は儒医(医師で儒学者)の向井元升(むかいげんしょう 1609-77)といい、長崎に住んで天文学を学び、その興味は次第に儒学へ移り、更には医学をを学んで儒医の道を志し、本草学を学び、漢方を独学して奥義を究め、オランダ人から学んだ医術である紅毛外科も修得、日本の内科学にも西洋の外科学にも造詣の深い医者となり、その名声は九州一円に広がり、1658年(万治元年)に天満神霊の夢お告げによって京都に移住した後は朝廷の信任厚い良医の第一人者と称され、貝原益軒ら門人も多数を数えました。
一方、儒学者としては1647年(正保4年)に長崎奉行が提供した立山の敷地に孔子廟(聖堂)および学舎を建て「立山書院」と称し、この聖堂は後に中島川のほとりに壮大な聖堂が再建されて「中島聖堂」と呼ばれるようになり、1871年(明治4年)の廃止まで約220年にわたって長崎聖堂として存在し、江戸時代を通じて長崎における学問・教育の中心でとなり、長崎聖堂の祭酒は一時期を除いて向井家が代々を務めました。
また1648年(慶安元年)には私塾「向井社学輔仁堂」を開設して子弟を養い、後身の学問の発展や教育に熱心に取り組んだといいます。
向井去来はこの儒医・向井元升の次男として長崎で生まれた後、、8歳の時に父に連れられて京都に移住しましたが、後に福岡の叔父のもとに身を寄せて武芸を学び、その名は鎮西に知られていたといいます。
その功あって24~25歳頃に福岡藩に招請されますが、結局仕官せず1675年(延宝3年)頃に武士を捨てて京都に戻り、軍学・有職故実・神道を学んだ後、1677年(延宝5年)に没した父を継いで典薬(宮中や幕府に仕えた医師)となった兄・元端を助け、公家に出入りして神道家・陰陽家として天文暦に携わったといいます。
1684年(貞享元年)、上京した芭蕉の高弟・其角(きかく 1661-1707)の紹介で松尾芭蕉(まつおばしょう 1644-94)の門に入ることとなり、文通によって松尾芭蕉の教えを受け、翌年には嵯峨に草庵「落柿舎」を営んで隠棲するとともに俳諧に専念。1686年(貞享3年)には江戸に下り初めて芭蕉と会う機会に恵まれたといいます。
高潔篤実な人柄で一門の信望を得た去来は蕉風の忠実な伝え手として同門中で重んじられ、芭蕉からも「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と称えられるなど信頼厚く、「俳諧の古今集」とも称され蕉門の代表的撰集となった「猿蓑(さるみの)」の編纂にあたっては、芭蕉の指導のもとその任を野沢凡兆とともに与えられています。
芭蕉の没後も固く師説を守るとともに門友たちに忠実な師風を伝えることに努め、同門の高弟たちが邪道に走るのを戒めるべく其角や許六(きょりく)と論争し、俳諧問答を重ねたといい、許六との論争を収めた「俳諧問答青根が峰(1685)」や、蕉風随一の俳論書として評価の高い「去来抄(1675)」、そして「旅寝論(1678)」 などの俳論書を著しています。
1704年(宝永元年)9月10日に、岡崎聖護院の寓居にて病没し、真如堂にて葬儀の後、真如堂内の向井家墓地に葬られたといいますが、墓は現在は失われ、嵯峨の地の落柿舎の北側にある弘源寺の境外墓地「小倉山墓地」に招魂の小碑「去来塚」が建てられています。
「落柿舎」は元々は豪商が建築した建物であったといい、1687年(貞享4年)以前、1685年(貞享2年)~1686年(貞享3年)頃に向井去来が入手し自らの草庵としましたが、嵯峨野にあったことは確実なものの、当時の庵の正確な場所までは不明だといいます。
そしてその名前の由来については去来の「落柿舎記(らくししゃのき)」に、当時庭にあった40本の柿の木をある商人が一貫文を出して木ごと買取ろうとした所、柿の実が一夜のうちにほとんど落ちてしまい、気の毒に思って代金を返してやったという逸話から。
この落柿舎を師匠の松尾芭蕉は、1689年(元禄2年)12月、1691年(元禄4年)4~5月、そして大坂で亡くなる数か月前の1694年(元禄7年)閏5~6月の計3度にわたって訪れており、とりわけ1691年(元禄4年)初夏には4月18日から5月4日までの期間と長く滞在し、落柿舎を拠点として嵯峨嵐山の名所名刹を巡ったといい、その記録は「嵯峨日記」として記録にも残されています。
以来落柿舎には多くの俳人が訪れる交流の場となり、また去来は「落柿舎制札」を定めて草庵を開放して「俳諧道場」とし、町民や農民など誰もが自由に出入りしていたといわれています。
1704年(宝永元年)に去来が亡くなると、庵は荒廃して場所も分からなくなってしまいましたが、1770年(明和7年)に井上重厚により再建。元の所在地が定かではなかったため、去来の句「柿主や梢はちかきあらし山」の風趣にかなう場所として天龍寺塔頭・弘源寺の跡地であった現在地に再建。この当時既に「去来塚」は現在地にあったといいます。
ちなみに井上重厚(いのうえじゅうこう 1738-1804)は嵯峨出身で去来の親族でもあったといい、場所の墓がある滋賀県大津市の義仲寺の住職で無名庵主にして五升庵蝶夢門下の俳人で、芭蕉百回忌を営むなど芭蕉の遺徳顕彰に生涯を捧げた人物です。
落柿舎はその後、弘源寺より土地の返還を要請され老僧の退隠所「捨庵(すてあん)」とされたため、別の地に庵を構えるなど嵯峨野の地を転々としましたが、明治初期に旧捨庵が売りに出されているのを嵯峨の旧家が買い受け、元の位置にて再建され、庵主には俳人の山鹿栢年(やまがはくねん)が就任。
しかし昭和期に入り再び荒廃しかけた所を、それを聞いた新聞記者で俳人の永井瓢齋(ながいひょうさい 1881-1945)や工藤芝蘭子(しらんし)ら8人が1937年(昭和12年)に資金を出し合って買い取り保存会を設立。
現在は芝蘭子と懇意だった保田與重郎(よじゅうろう)が会長を務めた教育図書出版社「新学社」が財政面で支援し「公益財団法人落柿舎保存会」によって保存・運営がなされており、2008年(平成20年)12月1日から2009年(平成21年)9月末まで庵の大規模な修復工事が行なわれた後、2014年(平成26年)には国の登録有形文化財に登録されています。
落柿舎の建屋は主として「本庵」と「次庵」で構成され、このうち「次庵」は落柿舎本庵を模した同じく茅葺屋根の建物で、俳句会やお茶会、読書会などの様々な文化活動に利用が可能だといいます。
一方「本庵」は1770年(明和7年)に再建された時のもので、嵯峨野ののどかな風景に溶け込んだ茅葺き屋根の草庵の玄関には、かつては主の在宅を告げた蓑と笠がかけられ、閑雅でどこか懐かしいたたずまいは風雅を愛する多くの方々に親しまれています。
また手入れの行き届いた庭には俳句の季語となる100種の草木が植えられ、秋には柿と紅葉が色を赤く染め邸内に趣を添えるほか、1770年代に建立され洛中一古いとされる去来の詠んだ「柿主や梢はちかきあらし山」の句碑のほか、明治天皇皇后・昭憲皇太后などの句碑が建てられており、句碑めぐりをすることができます。