京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町、嵯峨野にある小倉山の東麓に位置する天台宗山門派の寺院。
山号は小倉山(おぐらやま)で、正式名称は「小倉山 二尊教院 華台寺(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)」。
「二尊院」の寺名の由来は、通常は一尊のみを祀る寺院が多い中、本堂に本尊として釈迦如来(木造釈迦如来立像)および阿弥陀如来(阿弥陀如来立像)の二尊を祀るところから。
本堂に左右対になって並び立ち、
向かって右が人が誕生して人生の旅路へと出発する際に現れるという「発遣の釈迦(ほっけん)」
左が人がその生涯を閉じる際に西方極楽浄土より迎えに来るという「来迎の阿弥陀(らいごう)」
二つの像は鎌倉時代、春日仏師の作といわれ、ともに重文に指定。
像高は両像とも78.8cmで、まるで双子のようによく似ていますが、下半身の衣紋の形式など細部に違いが見られるといいます。
平安初期の承和年間(834~48年 47?)、嵯峨上皇の勅願により慈覚大師・円仁(えんにん)が建立したと伝わり、その後は衰微・荒廃していましたが、鎌倉初期に浄土宗の宗祖・法然が一時庵を結んでからは念仏の根本道場となり、さらに法然の高弟・湛空(たんくう 1176-1253)が九条兼実(かねざね)の援助を受けて再興されました。
この点法然入滅後の1227年(嘉禄3年)に起こった「嘉禄の法難」の際には、大谷の地より難を避けてその遺骸を一時的にこの地に移送・安置し、その後粟生の西山光明寺で火葬された後、分骨をこの地に迎えて雁塔が建てられています。
これらの由緒から二尊院は現在「法然上人二十五か所霊場」の第17番札所に数えられています。
その後、南北朝の内乱の際には足利義教により再興され、また「応仁の乱(1467~77)」の兵火でも焼失していますが、1521年(永正18年)に三条西実隆(さんじょうにしさねたか)父子によって「本堂」と「唐門」が再建されており、この二つは現存し京都市指定文化財にも指定されています。
安土・桃山から江戸期にかけては豊臣・徳川などから寄進を受けて寺領を増やしたほか、現在の「総門」として伏見城の遺構の一つである薬医門が移築されています。
明治時代までは般舟院・遣迎院・廬山寺とともに「黒戸四箇院」と呼ばれる御所の仏事を司る4つの寺院の一つにも数えられ、また代々の住持で天皇の戒師となる者も出るなど皇室や公家たちと深い関わりを持ち、天台・真言・律宗・浄土の四宗兼学の道場として栄えました。
そして明治維新後に浄土宗から天台宗に改宗され現在に至ります。
上述のような経緯から境内山腹にある墓所には法然廟所(びょうしょ)をはじめ土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇の分骨を安置する三帝陵や二条、三条、四条、三条西、嵯峨(旧・正親町三条)、鷹司家といった公家や名家の墓が数多く見られるほか、江戸時代の儒学者・伊藤仁斎・伊藤東涯父子や、京都の豪商で保津川や高瀬川の開削など水運の発展に尽力した角倉了以(すみのくらりょうい)角倉了以・角倉素庵父子、往年の銀幕スター・坂東妻三郎など、文人・学者、有名人などの墓も数多くあることでも知られています。
また二尊院のある小倉山の地は平安時代に藤原定家が有名な「小倉百人一首」を編んだとされる「時雨亭(しぐれてい)」があったと伝わる場所の一つでもあり、境内の奥には「時雨亭跡」と伝わる場所に石組が残されています(常寂光寺にも時雨亭があり諸説あり)。
そして百人一首の藤原忠平の句に「小倉山 峰のもみじ葉 心あらば 今一度(ひとたび)の 御幸(みゆき)待たなむ」と詠まれているように、小倉山は古くから紅葉の名所として親しまれてきた地で、現在も嵐山を代表する紅葉スポットとして秋には多くの参拝客が訪れます。
とりわけ総門を入った先、総門から西へ真っすぐに伸びる約200mの「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、秋になるとカエデが真っ赤に色づき参道の左右を覆う美しい光景が楽しめるほか、本堂向かいの唐門から覗く額縁絵のような赤い紅葉は必見です。
この他にも本堂前にある龍女が解脱昇天したという伝説をもとにして造られたという白砂の「龍神遊行の庭園」や本堂南にある極楽浄土の世界を表現したとされる石庭「寂光園」、本堂裏にある6体の地蔵が可愛らしい「六道六地蔵の庭」の3つの庭園や、元々は後水尾天皇の皇女・賀子内親王の化粧の間であったものが、1697年(元禄10年)に下賜・移築したものだという茶室「御園亭(みそのてい)」、更には自由に撞くことができる梵鐘「しあわせの鐘」などが見どころです。