京都市右京区、渡月橋の南側、名勝として知られる嵐山の中腹に位置する寺院で真言宗五智教団の京都本山。
寺伝によれば、奈良時代初期の713年(和銅6年)、元明天皇の勅願により五穀豊穣、産業の興隆を祈願して行基が開創した「木上山葛井寺(もくじょうざんかどのいでら)」が前身とされています。
その後829年(天長6年)に弘法大師空海の弟子・道昌(どうしょう)が中興し、本尊として虚空蔵菩薩像を安置。
道昌は大堰川の修築や、現在の渡月橋にあたる法輪寺橋の設置、さらに船筏(ふないかだ)の便の開港などに尽力したされている人物です。
868年(貞観10年)には葛井寺を再興し、寺号を「法輪寺」と改めました。
平安時代には有名な清少納言の「枕草子」の寿の段において代表的な寺院として挙げられるなど、多数の参詣者が訪れ隆盛。
その後、室町時代の1467年(応仁元年)に勃発した「応仁の乱」の兵火より罹災し、江戸時代に後陽成天皇により再建。
また幕末の1864年(元治元年)には「禁門の変(蛤御門の変)」の兵火により、再度罹災するなど、同じく嵯峨嵐山にある天龍寺と同様に度重なる兵火による焼失と再建を繰り返しています。
現在の堂宇は明治時代に再建されたものが中心で、多宝塔(二重塔)などが見所です。
本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)で、奥州会津柳津の円蔵寺、伊勢の朝熊山(あさまやま)の金剛證寺とともに「日本三大虚空蔵」と称されています。
智恵と福徳・技芸上達、および丑寅年生まれの守り本尊として信仰を集め、「今昔物語」や清少納言の「枕草子」、吉田兼好の「徒然草」?や「平家物語」などにも記述が残るなど、「嵯峨の虚空蔵さん(さがのこくうぞうさん)」として古くから親しまれています。
中でも干支が一巡する13歳になった子供たちが虚空蔵菩薩の無限の智恵と福徳を授かろうと参拝する「十三まいり」は京都を代表する風習として知られ、春の新緑の季節には、全国から数え年で13歳を迎えた男子・女子が数多く訪れます。
また平安時代には清和天皇が廃針を納めた針堂を建立し、天皇の命により皇室で使用された針を供養「針供養」が行われる様になり、現在も境内には針供養塔があるほか、12月8日の「針供養」では皇室より預った針が供養されているといいます。
その他にも、惟喬親王の故事により、「漆祖神」の寺としても有名なほか、境内の人形塚では毎年10月15日に「人形供養」が行われ、また全国的にも珍しい電気・電波を守護する鎮守社として「電電宮社(でんでんぐう)」が祀られていることでも知られています。
更に渡月橋の南側の小高い丘の上に位置することから、境内にある舞台(展望台)からは有名な渡月橋を見下ろす美しい嵐山の景色や京都市内の景色を一望できることでも有名です。