京都市東山区三十三間堂廻町、三十三間堂(蓮華王院)の東向かいに位置する浄土真宗遣迎院派(けんごういんは)の寺院。
もとは天台宗であったが、第二次世界大戦後に浄土真宗遣迎院派に改宗している。本尊は阿弥陀如来。
1594年(文禄3年)5月に豊臣秀吉の側室・淀殿(よどどの)が亡父・浅井長政(ながまさ)、祖父・浅井久政らの二十一回忌の追善供養の際に秀吉に願い出て創建し、浅井家の菩提寺とされ、寺号は長政の法名をとって「養源院」と名付けられました。
この点、淀殿は長政と織田信長の妹・市との間に生まれた浅井三姉妹の中の長女で、幼名は茶々。
開山の清伯(成伯、盛伯とも)法印は比叡山の僧で、浅井氏の庶流にして長政の弟と伝わる人物です。
1616年(元和2年)5月7日には、浅井三姉妹の三女(淀殿の妹)であり、2代将軍・徳川秀忠の正室となった崇源院(すうげんいん)(お江)により、大坂の陣で自害した淀殿と豊臣秀頼の菩提が弔われました。
その後1619年(元和5年)に、落雷による火災で焼失してしまいますが、1621年(元和7年)に崇源院(江)が伏見城の遺構を移して再興。
以後は徳川家の菩提所ともなり、崇源院(江)のほか、2代将軍・徳川秀忠から14代将軍・徳川家茂まで歴代将軍の位牌が祀られています。
このうち崇源院(江)と秀忠の位牌には天皇家の「菊」、徳川家の「葵」、そして豊臣家の「桐」の3つの紋が見られるのですが、これら3つの紋を同時に拝見できる寺院は日本でここだけだといいます。
「菊」は天皇家の紋で、お江と秀忠の子、和子が後水尾天皇のもとに入内したことからつけられています。
さらに「葵」は歴代の位牌がまつられている徳川家の紋、「桐」は養源院を建立した豊臣家の紋で、いずれも養源院の創建・復興に尽力しています。
また創建者の淀殿、再建者のお江の肖像画、そして日本史の教科書でよく目にする豊臣秀頼の肖像画もあり、中でもお江の肖像画はここでしか見ることができないといいます。
伽藍の見どころとしては、まず「本堂(方丈)」は伏見城の中の御殿を移築したもので、廊下は日光東照宮の眠り猫で有名な江戸初期に活躍した伝説の彫刻職人・左甚五郎の作と伝わり、歩くとうぐいすの鳴き声のような音がすることから、「うぐいす張りの廊下」と呼ばれています。
また天井には1600年(慶長5年)8月、有名な「関ケ原の戦い」の前哨戦となった「伏見城の戦い」の際、約4万もの西軍の大軍に包囲されながらも約2,000人というわずかな兵で伏見城を死守するも、最後は中の御殿にて自刃した徳川家康の重臣・鳥居元忠(とりいもとただ)とその兵士たち380余人の自刃の際の血痕が残された板が、供養のために天井板として使用されており、「血天井」として有名です。
この点「血天井」は鷹峯の源光庵や大原の宝泉院など、京都の他の寺にもいくつか現存していますが、養源院のものは他の血天井よりも血痕が生々しく残っており、指の跡や、元忠が自害した場所といわれる人の姿などが鮮明に残されているといいます。
そしてその「血天井」の下には、「風神雷神図屏風」で知られる江戸時代の絵師・俵屋宗達が弔いの意味を込めて描いたという表獅子・裏波に麒麟図、表獅子・裏白象図の4枚8面の杉戸絵が配されており、いずれも国の重要文化財に指定されています。
杉戸の中から今にも飛び出してくるかのような躍動感ある技法を用いて奇抜かつユーモラスに描かれ、中学校・高校の美術教科書にも掲載されています。
ほかにも堂内松の間のにある宗達の12面の襖絵「松図」や、狩野山楽筆の「唐獅子図」「牡丹図」などの作品が公開されています。
本堂の東には、江戸時代の作庭師・小堀遠州が作庭した東山連峰の阿弥陀ケ峯を遠景とした庭園が広がり、境内では四季折々の風景を楽しむこともできます。
中でも春の本堂を覆うように咲く紅八重枝垂桜と、秋の参道の紅葉はとりわけ美しく、いずれも隠れた名所となっています。