京都市東山区の阿弥陀ヶ峰山頂にあった豊臣秀吉の廟所。
「阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)」は東山区東山七条の東方にそびえる標高196mの山で「東山三十六峰」の一つ。
山の名前は奈良時代の天平年間(729-49)に行基が阿弥陀如来を安置したことに由来するといい、古くより葬送地・鳥辺山の一画を成し鳥辺山とも呼ばれるとともに、京の街を一望できる戦略の要衝でもありました。
1598年(慶長3年)8月18日、伏見城にて63歳で亡くなった秀吉の遺体は、その遺命により阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山頂に葬られました。
墳上には祠廟、山の中腹には社殿が建立されるとともに翌年4月18日に遷宮式が行われ、後陽成天皇から「正一位豊国大明神」の神階と神号を賜り、鎮守社は「豊国社」と命名され以後、毎年盛大な祭礼「豊国祭」が執り行われたといいます。
この点、同社は墓と社(やしろ)と寺が混交したもので、霊廟建築の起原とされ、日光廟などの先駆けともいえます。
しかし1615年(元和元年)、「大坂の陣」による豊臣家の滅亡により神号を除かれるとともに社領も没収、廟は徳川幕府によって破壊され、江戸時代は荒廃に任せた状態でした。
その後、徳川の世が終わった明治初期の1868年(慶応4年)閏4月、明治天皇が大阪に行幸した際に秀吉を賞賛し、豊国社の再興を布告する沙汰書が下されて復興がはじまり、1875年(明治8年)に東山の地に豊国社されると、1880年(明治13年)には旧方広寺の大仏殿の跡地である現在地に「豊国神社」として社殿も再建を果たします。
更に1897年(明治30年)、秀吉の300年忌に際して廟宇が再建されることとなり、墳上には巨大な五輪石塔が建てられました。
元々の廟所は阿弥陀ヶ峰の太閤担(たいこうだいら)といわれる広場の付近にあり、阿弥陀ヶ峰の中腹には秀吉を祀る豊国神社が創祀されていましたが、現在の廟所は東山七条の交差点から東へと伸びる京都女子学園の通学路、通称「女坂」を経て、太閤担に建てられた拝殿から更に一直線に続く489段の石段を登った先にあります。
この点、太閤担の付近は知る人ぞ知る桜の隠れた名所となっています。