京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町、如意ヶ岳(大文字山)西麓、哲学の道から約200m東へ入った非公開寺院の立ち並ぶ通称「隠れ道」という小道沿いにある臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院。
円成山(えんじょうさん)と号し、本尊は如意輪観音(にょいりんかんのん)。
江戸初期の1643年(寛永20年)、後陽成天皇の典侍であった持明院基子(じみょういんもとこ ?-1644)(了性院)が同地に寺院を建立することを第108代・後水尾上皇(ごみずのおじょうこう 1596-1680)に願い出たのがはじまりで、翌年基子の没後にその娘である後水尾天皇第12皇女・宗澄内親王(そうちょう)(浄法身院宮宗澄尼(じょうほっしんいんのみやしゅうちょうに) 1639-78)(多利宮)が相続。
更に1654年(承応3年)、霊夢を感じた後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)の発願によって南北朝の戦乱により荒廃していた如意ヶ岳山頂の如意寺(にょいじ)の如意輪観音像が当寺に移されることとなり、その際に寺に伝わる霊鏡(れいきょう)も併せ祀ったことから寺号を「霊鑑寺」と名づけたといいます。
当時は現在地の南隣にありましたが、1687年(貞享4年)に第111代・後西天皇(ごさいてんのう 1638-85)の皇女・普賢院宮(ふげんいん)が住持した際に父の御所御殿であった旧殿、現在の書院・居間を賜り現在地に移転。
以後「明治維新」に至るまで5人の皇女・皇孫女が代々入寺して住持となり1890年(明治23年)までは伏見宮の尼僧が門跡(もんぜき)として在院されたことから「霊鑑寺尼宮」と呼ばれ、また移転前の寺域が鹿ケ谷(ししがたに)の渓流に沿っていたことから「谷御所」「谷の御所(たにのごしよ)」「谷御殿」または「鹿ケ谷御所」「鹿ケ谷比丘尼御所」とも呼ばれていたといいます。
以上のように皇室との関係がとても深い寺院であり、堂宇再建にあたって禁裏の旧御殿を下賜されたほか、後奈良・正親町・後水尾・後西天皇・光格の各天皇の直筆の文書である宸翰(しんかん)や親王・女王の真筆、江戸2代将軍・徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮・東福門院の十二単衣、更には尼宮たちの雅な暮らしを偲ばせる御所人形200点や貝合わせ、御絵がるたや双六(すごろく)、香炉など、皇室ゆかりの寺宝を数多く収蔵しています。
尼門跡寺院としての格式を備えた趣のある境内には院御所の旧殿遺構である書院を中心に玄関、本堂や表門などが配され、このうち現在の「本堂」は、江戸幕府11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり 1773-1841)の寄進により1803年(享和3年)に再建されたもので、堂内には恵心僧都(えしんそうず)作と伝わる本尊・如意輪観音像及び傍に伝教大師の高弟・智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん 814-91)の作と伝わる不動明王像が安置されています。
また「書院・玄関」は1675年(延宝3年)に造営された後西天皇の院御所にあった御休息所・御番所を貞享年間(1684-88)に移築したもので、狩野派の作と伝わる「四季花鳥図」などの華麗な襖絵が展示されています。
更に書院南側の「書院前庭」は東山連峰の大文字山より西に延びる稜線を利用して造られた江戸初期の池泉観賞式庭園で、寺の創建に関わった後水尾天皇が椿(ツバキ)を好んだことから、境内には後水尾上皇遺愛と伝わり市の天然記念物である「日光椿」や散椿、紅八重侘助など100種類以上のツバキの銘木が植えられ、庭園を覆う杉苔と椿とのコントラストが美しく、京都を代表する椿の名所の一つとして知られています。
また山裾に広がる回遊式庭園には、樹齢350年を超える高雄楓(タカオカエデ)などが植栽され、秋には色鮮やかな美しい紅葉を観賞することができ、通常は非公開の寺院ですが、この椿と紅葉の見頃の時期に合わせて特別拝観も行われています。