京都市山科区、地下鉄東西線蹴上駅にほど近い三条通沿いの東山ドライブウェイ入口すぐを左へ入った神明山にある神社。
伊勢神宮と同じく「天照大御神」が祀られており、古くから「京都のお伊勢さん」と呼ばれて親しまれています。
中世の兵火によって古記録は社殿ともども焼失してしまったといい、創建の詳細は不明も、社伝によれば古墳時代の5世紀末、第23代・顕宗天皇(けんぞうてんのう)の勅願により筑紫日向の高千穂の峰の神蹟より天照大神の神霊を移して創建と伝わっています。
そして飛鳥時代に第38代・天智天皇が神田を寄進するとともに神域の山を日ノ御山(ひのみやま)と名付けたともいわれています。
更に平安前期、第56代・清和天皇(在位858-76)の貞観年間(859-877)に勅願によって「日向宮」の勅額を賜り、天照大神を粟田山に勧請したことにはじまるとも、また勅により菅原船津によって社殿の改築が行われたとも、また同じ清和天皇の代に都で疫病が流行した際、「この宮地に湧きいづる清水の水をくんで万民に与えよ」との神告に基づき清和天皇の勅願により菅原船津が水を振る舞うと疫病が治まったといい、これ以後この泉は「朝日泉」と名付けられ、京名泉の一つに数えられたとも伝わっています。
第60代・醍醐天皇(在位897-930)の延喜式の制度下では官幣社に列し、南北朝時代の建武の戦乱中には、新田義貞が戦勝を祈願して太刀一身を奉納しています。
その後「応仁の乱(1467-77)」の兵火で社殿ならびに古記録を焼失し、わずかに古井が残り旧社地の跡を伝えるのみでしたが、江戸初期の1614年(慶長19年)に松坂村の農・松井藤左衛門の篤志によって旧社地に仮宮が造営され再建。
更に徳川家康の崇敬も厚く失った社領も戻され、社殿の改造も行われたほか、同じ頃に後陽成天皇(在位1586-1611)より、内宮および外宮の御宸筆の額を賜っています。
江戸時代には「京のお伊勢さん」と呼ばれるように伊勢神宮への代参、また神社の一の鳥居が京の七口の一つ「粟田口」に面していることから東海道を往来する旅人たちの道中の安全祈願の参拝で賑わうようになり、現在も方除け、開運、縁結びの神として知られています。
社殿は伊勢神宮を模した神社建築の初期の様式である「神明造(しんめいづくり)」で建造されており、鳥居を潜って手前に外宮(下ノ本宮)、階段を登った奥、一段高い所に内宮(上ノ本宮)の2つの本殿があります。
そして内宮には天照大神・多紀理毘賣命・市寸島比賣命・多岐都比賣命、外宮には天津彦火瓊々杵尊・天之御中主神が祀られています。
その他にも境内にはたくさんの社があるほか、内宮の更に奥にある「天の岩戸」は「胎内くぐり」と呼ばれるくぐり抜けのできる洞窟のような穴が開いており、内部には開運厄除の戸隠神社が祀られていて、隠れたパワースポットとして近年人気を集めています。
行事としてはまず1月1日の深夜に朝日泉の若水を汲んで神饌を献供し、正月三が日の間参詣者に若水を授与する「若水祭」のほか、1年の厄払いのために、天の岩戸をくぐる「ぬけ参り」が知られている2月3日の「節分祭」、更には御神楽、人長の舞などが奉納される10月16・17日の「例大祭(外宮例祭・内宮例祭・神嘗祭)」などが知られています。
また神域には桧、杉の老樹が繁茂し、桜、つつじなどの四季の草花が楽しめますが、とりわけ秋の紅葉は隠れた名所として人気を集めています。