京都市山科区厨子奥花鳥町、京都市内が一望できる東山の華頂山(標高210m)の山頂、東山ドライブウェイ展望台駐車場すぐの所にある青蓮院門跡の飛び地境内。
桓武天皇は784年(延暦3年)に都を奈良の平城京から京都南部の長岡京に移しましたが、造長岡宮使が暗殺された「藤原種継暗殺事件」を機に、首謀者として淡路島に流された桓武天皇の弟・早良親王(崇道天皇と追号)の死や、その死後に次々起きた飢饉や疫病の流行などの天変地異、更には皇后や皇太子の発病など不幸な事件や事故が相次いだため、新たな遷都を決意します。
その際、和気清麻呂は天皇を現在将軍塚のある山の山上へと誘い、京都盆地を見下ろしながら都の場所としてふさわしい旨を進言。桓武天皇はその勧めに従い、794年(延暦13年)に平安京の建都に着手したのでした。
そして遷都に際し桓武天皇は王城鎮護のため、高さ8尺(約2.5m)の武装させた土偶、すなわち土で作った将軍の像に鎧甲を着せて鉄の弓矢を持たせ太刀を帯させ、京都の方を向けて塚に埋めるよう命じ、都の安泰を祈ったといい、これがこの地を「将軍塚」と呼ぶ由来とされています。
この「将軍塚」は平安末期以降、国家に大事があると必ずこの塚が鳴動して前兆をあらわすという伝説が「源平盛衰記」や「太平記」に残されており、「源平盛衰記」では後に鎌倉幕府を開くこととなる源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵の前年にあたる1179(治承3年)7月に、3度にわたってこの塚が鳴動し、次いでまもなく大地震が起ったと伝えられています。
そしてこの他にも南北朝時代の延元年間(1338年頃)には、新田義貞がこの地に陣を敷いて足利尊氏の軍を敗ったほか、「太平洋戦争」ではこの地に高射砲の陣地が敷かれています。
近代では日露戦争で活躍した東郷元帥や黒木大将、更には大隈重信、菊地大雪などのお手植えの松と石柱があるなど、 往時の偉人達が塚を訪れ、ここから京の都を一望し本の将来に思いを馳せました。
この点、高さ2m、直径約20m四方というこの将軍塚は今も現存しており、長く青蓮院によって管理され、将軍塚の他にも山上で発見された石造大日如来像を安置するための大日堂が1908年(明治41年)に建立されているほか、また市街地より200m程高い位置にあり、京都市街の見晴らしが良いことから展望台も設けられていて、以前より夜景スポットとして知られている場所でした。
その後平成に入り、北野天満宮の前にあった「平安道場」が閉鎖され解体処分となることが決定した際、歴史的文化遺産を継承するためにと青蓮院が同建物を東山山頂の将軍塚に移築再建することを決定。
2014年(平成26年)10月に完成した奈良大仏殿のおよそ横幅半分ほどの巨大な木造の大建築物は「青龍殿」と命名され、奥殿には日本三大不動画の一つで国宝の「青不動明王」が安置され、精密な複製画を通じて参拝することが可能となり、また建物内では所定日に護摩が修され、人々の諸願成就が祈願されているといいます。
更には延面積1046㎡という清水寺の舞台の4.6倍の広さを有する木造の「大舞台」も同時に新設され、京都市内を一望できる圧倒的スケールの大パノラマが楽しめる新たなスポットが誕生し、近年注目を集めています。
他にも展望台に続く庭園には紅葉(約220本)や桜(約200本)をはじめ、源平垂れ桃や藤、シャクナゲ、サツキなどが植えられており、とりわけ桜と紅葉の名所として、秋季と春季にはライトアップも開催され人気を集めています。