京都市東山区五条通東大路東入遊行前町、五条坂の坂の途中の道沿いに位置する浄土宗寺院。
東山木食寺と号し「日限(ひぎり)地蔵」「日限さん」の通称で親しまれています。
平安中期の942年(天慶5年)、朱雀天皇の勅願により天台座主・尊意(そんい)が乙訓郡大藪郷(現在の京都市南区久世大藪町)に「大薮山 仁王護国院(ごこくいん)」という天台宗寺院を創建し、鎮護国家の道場に定めたのがはじまり。
その後一旦荒廃するも、鎌倉時代に入った文永年間(1264-75)、法然上人の高弟で知恩院第2世の勢観房源智(げんち)の弟子である蓮寂(れんじゃく)によって再興され、この際に浄土宗の専修念仏道場となり、「安祥院(あんしょういん)」と改められました。
それから南北朝の兵火による焼失を経て衰微ないし廃絶していたものを、江戸中期の1725年(享保10年)、木食正禅養阿(もくじきしょうぜんようあ)が入寺し、清水寺の成就院より現在地に永代借地権を得て現在地に中興しています。
この点、養阿(?1687とも-1763)は江戸中期の僧侶で、五穀を断ち草根木皮(木の実)を常食とする木食行と呼ばれる難行を修する「木食僧(もくじきそう)」として知られる人物です。
丹波国桑田郡保津村の武士の子として生まれ、24歳で仏門に入り、泉涌寺雲龍院で修業の後、高野山で木食行を修め、各地を行脚してから京都に戻り七条大宮に「梅香庵」という草庵を結び、その後は念仏行脚をするとともに洛中洛外の無縁墓地を回って罪人や身寄りの無い不遇な人々の魂を供養するとともに、社会事業に尽くしたことで知られ、京都への入口、現在の蹴上から山科へ抜ける旧国道1号線、当時は東海道五十三次の難所といわれた日ノ岡峠の改修工事や、急坂のある渋谷街道、現在の東山区から山科に抜ける渋谷道の補修工事などを行ったことでも知られています。
本尊の阿弥陀如来像はその養阿の自作と伝わり、「京都六阿弥陀」の一つで養阿が阿弥陀仏の霊感を受けて発願・創始とされる「洛陽六阿弥陀めぐり(らくようろくあみだめぐり)」の第4番札所となっています。
通常は一般公開されていない寺院ですが、彼岸と毎月の功徳日には本堂の阿弥陀如来を拝むことができ、参拝すると無病息災、家運隆盛、諸願成就のご利益得られるといいます。
ちなみに功徳日は毎年同じで、正月15日、2月8日、3月14日、4月15日、5月18日、6月19日、7月14日、8月15日、9月18日、10月8日、11月24日、12月24日および春と秋の彼岸となっています。
また本堂の左にある地蔵堂に安置されている地蔵尊(地蔵菩薩像)は、養阿が1730年(享保15年)に霊元天皇らの寄進を受けて造った高さ2.6mにもおよぶ金銅製の半跏像で、明治時代からは参拝者が自分で日数を決めて祈願すればどんな願いでも叶えてくださるとされ、「日を限って」願い事をすれば諸願成就することから「日限地蔵(ひぎりじぞう)」「日限さん」として広く信仰を集めています。
また境内にある高さ10mの山桜(ヤマザクラ)は、オオシマザクラとの自然交配種(ヤマザクラ近縁種)で非常に珍しい品種であることから、2004年(平成16年)3月に「京都市の保存樹」にも指定されています。
この他に、境内墓地には勤王の志士として知られる梅田雲濱(うめだうんぴん 1815-59)の墓があることでも知られます。
雲濱は若狭小浜藩の藩士の家に生まれ、ペリー来航時には尊皇攘夷を唱える志士たちの精神的な指導者として活躍しますが、「安政の大獄」で捕えられ獄中にてその生涯を閉じています。