京都府京都市中京区六角通神泉苑西入南側因幡町、大宮通の六角から六角通を西へ進んだ因幡町の西側、武信稲荷神社の斜向かいにあった獄舎の跡で、跡地には現在は更生保護施設やマンションが建っており、その敷地内に跡地であることを示す石標や石碑が複数建てられています。
「六角獄舎」は平安京に左右対称に建設された牢獄である左獄・右獄のうち左獄を前身とし、元々は現在の京都府庁付近にあったものが、安土桃山時代の豊臣秀吉の時に小川通御池上る西側に移されて「小川牢屋敷」となり、更に江戸中期1708年(宝永5年)3月の「宝永の大火」で焼失したため、翌年に現在地に移転されて「三条新地牢屋敷」となり、六角通沿いにあったことから「六角獄舎」または「六角獄」「六角牢」などと呼ばれるようになりました。
「京都御役所向大概覚書」によれば、北は六角通から南は蛸薬師通、東は神泉苑町通の範囲で、獄舎の東側には浄土宗如来寺があり、東西69m、南北53m、総面積3,660㎡で、周囲には堀を巡らし、内部には一般牢のほか揚り屋、切支丹牢(キリシタン牢)、女牢などに分かれていたといい、切支丹牢は江戸にもない珍しいものでした。
その六角獄舎は主に2つの出来事で歴史に名前を残しています。
一つ目は江戸中期の1754年(宝暦4年)閏2月7日、医学者・山脇東洋(やまわきとうよう 1705-62)が京都所司代であった小浜藩主・酒井忠用の官許を得て、六角獄舎で日本で最初の人体解屍観臓を行ったもので、1774年(安永3年)に刊行された日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書である前野良沢・杉田玄白(すぎたげんぱく 1733-1817)らの「解体新書(かいたいしんしょ)」に先立つこと17年前の出来事であったといいます。
山脇東洋は医師・清水東軒の長子に生まれ、父の師で宮中の医官・山脇玄脩(やまわきげんしゅう 1654-1727)に医学を学びその養子となった後、後藤艮山にも古医方を学んで古医方の四大家の一人といわれるようになり、1747年(延享4年)に中国の古典「外台秘要方」24巻を翻刻しますが、従来の五臓六腑説といわれる人体の構造についての記述に疑問を持ち、人体解剖への熱意に燃えていたところ京都・六角牢獄で死刑囚の獄中解剖を見ることを許されその場に立会う機会が与えられたのでした。
解剖には屈嘉という名前の男性死刑囚が用いられたといい、この時の解剖記録は5年後に「臓志(ぞうし)」としてまとめられ、これが実証的な科学精神を医学に採り入れた成果の最初で、この後江戸で行われるより正確性の高いオランダ医学書の翻訳書「解体新書」の刊行に影響を与え、日本の近代医学が芽生えるきっかけとなった出来事です。
東洋のこの偉業を讃えるとともに観臓された屈嘉の霊を慰めるため、六角獄舎跡には「日本近代医学発祥之地」の石標と、「山脇東洋観臓之地」の石碑が建立されています。
二つ目は幕末の1864年(元治元年)7月19日に起きた「禁門の変(蛤御門の変)」によって生じた火災「どんどん焼け」の中、火事の混乱に乗じて尊王攘夷派の志士・平野国臣ら未決囚三十数名が幕府役人によって処刑されるという悲劇的な事件です。
幕末の混乱期には老中・井伊直弼の「安政の大獄」による政治犯や、過激な尊皇攘夷派志士らが多く捕らえられて処刑されるようになりますが、その反面、尊皇攘夷思想の強い囚人が集められたことから、牢内で囚人たちに尊皇論を説くなどの行為もあったといいます。
この点、坂本龍馬の妻となるお龍の父で勤王家の医師をしていた楢崎将作(ならさきしょうさく 1813-62)も安政の大獄に連座してこの地に投獄され、1年後に保釈された後ほどなく亡くなっていますが、収監中のお龍の父の様子を坂本龍馬とお龍が獄舎の隣にある武信稲荷の境内にある榎木(エノキ)の大木に登ってうかがったというエピソードも伝わっています。
その後、1864年(元治元年)7月19日に「禁門の変(蛤御門の変)」が発生。
攘夷を掲げて朝廷に影響力を及ぼそうとした長州藩が1863年(文久3年)の「八月十八日の政変」で薩摩藩に京都を追われて失脚の後、再起を図ろうとした矢先に「池田屋事件」で新撰組によって更に多くの攘夷派志士を失い、これに憤激した長州藩が京都守護職の追放を掲げて決起し御所へと押し寄せた事件で、当初は長州藩が優勢だったものの、薩摩藩の参戦によって蛤御門での激戦の末に敗走し、この戦闘によって生じた火災は「どんどん焼け」と呼ばれ、堺町御門付近から上がった火は北東の風に乗って京都市中に広がり、現在の京都御苑の西側から南東方向の広い範囲に延焼して約2万7000世帯が焼失したといわれています。
この時火の手は六角獄舎にまで及ぶ勢いでしたが、この時に獄舎の管理を任されていた京都町奉行・滝川具挙(たきがわともたか ?-1881)は過激な志士たちの脱獄を恐れて囚人を解放せず、あろうことか未だ判決が定まっていなかった未決囚を次々に斬罪するという前代未聞の暴挙に出ます。
処刑されたのは、元福岡藩士で京都において尊王攘夷運動に奔走し新選組に追われながらも「八月十八日の政変」で京都を去った七卿落ちの一人・沢宣嘉を奉じて但馬地方で挙兵し生野銀山代官所を襲う「生野の変」を起こすも失敗し捕えられた平野国臣(ひらのくにおみ 1828-64)と生野挙兵の同志のほか、「天誅組の変」の水郡善之祐(にごりぜんのすけ 1827-64)など16名、「池田屋事件」のきっかけとなった古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう 1829-64)ら事件の関係者8名、その他に足利家菩提寺の等持院が所蔵する歴代将軍の木造の首を三条河原に晒し徳川将軍に天誅を加える意を示した「足利木像梟首事件」の長尾郁三郎(ながおいくさぶろう 1837-64)ら全部で37名といわれ、午後2時頃から夕暮にわたって切支丹牢の東側で全員が斬首され、「安政の大獄」で捕らえられ収監中の村井正礼は自らの手記「縲史」にて平野の絶命の声を耳にするなどの当時の生々しい記録を残しています。
もっとも結局火は堀川で止まり、六角獄舎まで来なかったとい、この暴挙を後で知った京都守護職・松平容保は滝川を叱責したといい、滝川はその後大目付へと出世するも、1868年(慶応4年)1月の「鳥羽伏見の戦い」の際には徳川慶喜の「討薩の表」を携えて鳥羽に向かうも、新政府軍の薩摩藩士・椎原小弥太との押し問答の末に鳥羽伏見の戦いの発端となる砲撃を受け、驚いた馬が鳥羽街道を一目散に走り去って戦線離脱するという失態で旧幕府軍の士気を大いに下げ、更に鳥羽から後退した淀城でも旧幕府軍の入城を拒否されるなどの失態を繰り返し、敗戦後は責任を問われて免職されています。
六角獄舎の跡地には現在この事件が起きたことを示す「勤王志士 平野國臣外数十名終焉之地」の石標および「殉難勤王志士忠霊塔」と「平野国臣殉難の地」の駒札が立てられています。
六角獄舎は明治維新の後は、京都府の監獄となり、後に「京都刑務所」として山科区東野井ノ上町に移転。
跡地は明治末期頃から更生保護施設として改築され、敷地の北側はその後不動産業者に売却され、現在はマンションが建築されています。