「壺井」および「壺井地蔵尊」は京都府京都市中京区西ノ京北壺井町、JR山陰本線・円町駅より南へ約800m、佐井通(春日通)と太子道(旧二条通)の交差する「太子道佐井」交差点の南東隅にある井戸と、そこに祀られている地蔵尊。
社会福祉活動をしたことで知られる奈良時代の高僧・行基が当地に立ち寄った際に野原に湧き出る水を見つけ、住民の先祖たちがその湧き出る水を井戸としたのがはじまりと伝わっています。
そして壺井にある下り階段の先に祀られている地蔵尊は、黒川道祐の「太秦村行記」によれば、この井戸から地蔵尊像が出たので「壺井地蔵」と称し安置されたもので、入口に建てられた「古蹟 壺井地蔵尊」の石標は壺井地蔵が出た壺井を示すものだといいます。
また井戸の前を通る旧二条通は別名「太子道」と呼ばれるように太秦広隆寺の太子堂への参詣道で、丹波道への主要街道でもあったことから、当地は人馬などの休憩の場とされ、現在の朱雀第八小学校のプールのある場所に茶所「壺井堂」が建てられ、住民の先祖たちの手によって堂守が置かれたといいます。
この点、全てが左右対称に作られた「平安京」においては牢獄も右獄と左獄が作られたといい、右獄は西囚獄(にしのひとや)と呼ばれて円町駅の北側の交差点付近に置かれていたといい、円町の「円」という文字は旧字体では「圓」と書き、一人の人を囲むと書くと「囚」となるのに対し、多人数を囲むと書くのが「圓」であり、多くの人を囲む場所という所から牢屋を表したといい、このことから元々「円町」とは獄舎の町という意味であったと考えられています。
その円町交差点から西大路通を南へ下がった旧二条通(太子道)と紙屋川とが交差する付近には、右獄の処刑場として「西の御仕置場(西土手刑場)」があったといわれ、明治維新まではこの場所で罪人の斬首が行われていたといいます。
そして江戸時代の罪人は市中引き回しの上、六角獄舎を出発し、一条戻橋では最後に小餅を、壺井ノ井戸では「末期の水」を与えられてから西土手刑場に向かったといわれていて、その際には近畿の国66か国を回り修行をされた修行者で当時の堂守であった六十六部坪井清遊師が当地にて経文をあげたといいます。
近年に至っても当時の壺井堂庵主・故井上孝順尼は90歳を超える高齢にもかかわらず、最後まで壺井ノ井戸でご飯を炊いていたといい、近隣住民たちはこれらの人々の意を汲んで壺井の井戸を守り続け今日に至っているといいます。
また壺井堂は井戸より旧二条通(太子道)を約100m進んだ朱雀第八小学校の道を挟んだ向かい側に移されていますが、小さなお堂が建てられ、お堂の前には「茶所」と刻まれた石標、そして堂内には井戸にあるものとは別に木造の地蔵尊が祀られています。