京都市上京区、「千本丸太町」の交差点周辺にあった平安京の朝堂院大極殿の跡。
平安京の大内裏(だいだいり)は「平安宮」ともいい、794年(延暦13年)の平安京遷都の際に都の中央を通るメインストリートである朱雀大路を北へと進んだ北端に配置された政治の中枢区画で、広さは東西約1.1km、南北約1.4kmあり、内裏や朝堂院、豊楽院のほか、周囲には宮殿や多くの官庁・役所(官衙)が建てられているエリアでした。
そして「朝堂院(ちょうどういん)」はその大内裏の中心にあり、国の重要な儀式が行われた場所で、東西に約60丈(約180m)、南北約150丈(約450m)あり、複数の建物群で構成され、全体が回廊で囲まれていました。
応天門を正門に両翼には栖鳳楼・翔鸞楼の二楼が配され、応天門を入ると左右に朝集堂、さらに会昌門を入ると、大礼の際に諸司官人の列した十二堂が建ち並び、正面の一段高い龍尾壇の上には左右に蒼龍楼・白虎楼の二楼を従える形で、朝堂院の正殿である「大極殿(だいごくでん)」がそびえ立っていたといいます。
そして「大極殿」は平安京遷都の翌年、795年(延暦14年)には完成していたといい、天皇の即位式や正月に行われる朝賀や御斎会(ごさいえ)、外国使節の謁見などの国家の重要な行事が行われる場所でした。
創建当初の大極殿は、東西11間、南北4間の寄棟造の建物であったといい、基壇の大きさは推定東西59m、南北24m、朱塗りの柱や組物、屋根の大棟、軒先や棟には緑釉瓦で葺かれた大屋根の両端には鴟尾(しび)を乗せ、屋根の下には色鮮やかな朱塗りの柱が並ぶ、豪壮かつ壮麗な建物だったといわれています。
これら大内裏の建造物は平安中期から後期にかけ火災による焼失と再建を繰り返しており、朝廷の儀式の中心は天皇の居所である内裏の紫宸殿や里内裏(このうちの一つが現在の京都御所になる)へと移行していき、1177年(安元3年)の「安元の大火」の後は再建されることはなく、平安京創建当初の建物は現在は残されていません。
そして朱雀大路は現在の千本通に相当していることから、千本通の道沿いには大極殿跡などの多くの史跡が残されています。
この点、平安京の大内裏があったのは千本下立売を中心とした東西1.1km、南北1.5kmの広大な範囲で、このうち朝堂院は現在の「千本丸太町」の交差点付近から南側に広がり、その北端に大極殿があったとされていて、このため千本丸太町の交差点の北西にある内野児童公園には1895年(明治28年)に「大極殿遺址」の石碑が建てられています。
これは同年平安奠都千百年を記念して開催された第4回の内国勧業博覧会の目玉として大極殿が復元されるとともに、「平安神宮」が創建されることとなり、その復元の地は諸々の事情から博覧会場に決まった岡崎の地に決定したため、千本丸太町の旧跡には記念碑が建てられることとなったためでした。
もっとも近年の調査で大極殿の中心はやや南の「千本丸太町」の交差点北西側であったことが判明しており、交差点北西角の歩道には「大極殿跡」の説明看板が建てられているほか、交差点南東角の歩道には「朝堂院跡」の説明看板が新たに設置されています。
ちなみに平安神宮の社殿は、平安京の朝堂院(3代目)を5/8のサイズ模したもので、正門の応天門のほか、門をくぐった先の広場から一段高い龍尾壇の上に大極殿に相当する外拝殿、そしてその左右に蒼龍楼・白虎楼の2つの楼閣が再現されており、往時を偲ばせます。
この他にも周辺には千本三条付近の朱雀門跡など、平安京の史跡が複数あり、石碑も建てられていることから、これらを巡る史跡めぐりもおすすめです。
また千本丸太町から丸太町通をやや西に進んだところにある京都アスニーには平安京に関する様々な資料や復元模型が展示されているため、合わせて見学することもできるようになっています。