「唐橋西寺公園」は京都市南区唐橋西寺町にある、国の史跡にも指定されている「西寺跡」に整備された公園です。
そして「西寺」は同公園付近にあった寺院の名前で、794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇の平安京造営の際、国家鎮護のため東寺とともに二大官寺の一つとして、796年頃に平安京の南の玄関口である羅城門を挟んで西側に東寺と左右対称に創建されました。
建立当初は寺院ではなく、東鴻臚館・西鴻臚館と呼ばれた中国や朝鮮などからの外国使節を迎えた時の入朝の式や宿泊の施設として建立された迎賓館だっとともいわれています。
ちなみに平安京にこの2寺以外の寺院の建立が認められなかったのは、奈良の平城京のように増大した寺院勢力の台頭を排除するための政治的意図によるとも考えられています。
創建当時の寺域・伽藍の規模は東寺とほぼ同じで、寺域は東西約250m・南北約510mあり、金堂・講堂を中心として、南大門・中門・五重塔などの伽藍が偉容を誇っていたといいます。
その後823年(弘仁14年)、第52代・嵯峨天皇の時代に、空海に東寺、守敏に西寺が下賜され、東寺の方は真言密教の根本道場として繁栄し、現在は世界遺産にもなっているのはご存じのとおりです。
一方西寺の方は832年(天長9年)に講堂が完成しますが、その後は990年(正暦元年)の大火など火災が相次ぎ五重塔を除き伽藍の多くを焼失。
ほどなく再建され、建久年間(1190-98)に文覚が塔の修理を行ったとの記録が残っていますが、その後再び荒廃。
鎌倉時代の1233年(天福元年)に五重塔も焼失した後は記録もなく、やがて復興されず廃寺になったと考えられています。
西寺が衰退した原因は諸説あり、そもそも右京の地は水はけが悪く、平安後期には住民がいなくなったために環境が悪化したこと、また西寺を下賜された真言宗の僧・守敏(しゅびん 生没年不詳)は大和・石淵寺の勤操(ごんぞう)らに三論、法相を学び密教にも通じた人物でしたが、空海と対立し、824年(天長元年)、神泉苑での祈雨で空海と法力を競い敗れ、これが原因で評判を落とし朝廷の支援を受けられなくなった点などが挙げられます。
寺跡は唐橋小学校および西寺児童公園の位置に確認され、1921年(大正10年)3月3日、「西寺跡」として国の史跡に指定。
その後1959年(昭和34年)からの発掘調査により金堂・廻廊・僧坊・食堂院・南大門等の遺構が確認され、未指定部分が1966年(昭和41年)に追加指定されています。
石碑の立つ公園の中央の盛り上がった土塁は講堂跡に松尾大社の御旅所として戦前に築造されたもので、毎年、5月の松尾大社の「松尾祭」の還幸祭(かんこうさい)の際に神事が催されています。
この他に西寺にかつて安置されていたという地蔵菩薩立像は、現在は東寺の宝物殿に所蔵され国の重要文化財に指定。
また東福寺に伝えられている銅鐘は、西寺のものだといわれています。
ちなみに直接の関係はないといいますが、唐橋西寺公園近くの南区唐橋平垣町には浄土宗西山禅林寺派の「西寺」が後継寺院として存在しており、門前には「西寺旧跡」の石碑も建てられています。