京都市上京区七本松通一条上る東入一観音町(いちかんおん)にある、真言宗智山派に属する寺院。
平安朝7代目の天皇にあたる第56代・清和天皇(せいわてんのう 在位858-76)ゆかりの勅願所であり後院。
開山は照空(しょうくう)で、本尊は延命地蔵。
古記録が無いため詳細な創立時期は不明ですが、平安初期の仁寿年間(851-54 853?●)に文徳天皇(もんとく)が染殿皇后の願いにより「仏心院(ぶっしんいん)」を建立し地蔵菩薩を安置したのがはじまり。
場所は平安京の北東端、現在の京都御苑の東に建つ「京都迎賓館」の付近にあった藤原良房の邸宅「染殿第(そめどのだい)」の南に建てられたといいます。
この点、良房は清和天皇が幼帝時に藤原氏として最初の摂政に任じられ、その後の藤原氏による摂関政治の礎を築いた人物であり、また染殿第は良房の娘で、文徳天皇の妃で清和天皇の生母にあたる明子(染殿)の御所でもあった人物です。
清和天皇が876年(貞観18年)に譲位した後は、染殿の南部分を御在所(仙洞)としこの地にて落飾し、その後は清和院には代々の皇子や親王が住し、また在原業平(ありわらのなりひら)ら歌人たちの歌会の場にもなったといいます。
鎌倉後期の1308年(徳治3年)に浄土宗西山深草派の照空信日が、先の「仏心院」を勅寺「清和院」に改名して再興し、今に伝わる「玉体地蔵」(重文)が奉安されました。
室町時代には清和天皇が「清和源氏の祖」であったことから、足利将軍家も深く帰依し、その保護を受けて栄えましたが、「応仁の乱(1467-69)」や享禄(きょうろく)(1528-32)の兵火のため焼失。
更に江戸初期の1661年(寛文元年)1月15日の御所炎上の際にも類焼し、その後、後水尾院と東福門院によって現在地に移転・再興されています。
なお現在も京都御所の東北には「染殿第跡」や「清和院御門」が残っており、当時の名残を留めています。
本堂に安置されている本尊・木造地蔵菩薩立像(玉体地蔵)は仏心院から迎えられた、等身大(167cm)の玉願入り、極彩色の像で、鎌倉時代の作で重文にも指定されています。
また旧・感応寺の河崎観音堂から迎えられた聖観音菩薩像(河崎観音)も平安時代の名品で重文に指定。
この像は平安時代の貞観年間(859-77)に一演法師が、一条京極東(現・寺町通)の鴨川西岸に建立した「感応寺」山内の河崎観音堂の本尊であったもので、弘法大師空海御作と伝わり洛陽七観音として知られた霊験あらたかな像でしたが、河崎観音堂が1531年(享禄4年)に焼失すると、清和院に合併され、現在は「洛陽三十三観音巡礼」の第33番札所で結願所にもなっています。
この他に境内には天満宮も祀られています。