京都市上京区小川通寺之内下ル射場町にある浄土宗寺院。
「鳴虎(なきとら)」の通称でしられており、山号は尭天山、本尊は阿弥陀三尊(伝快慶作)。
前身は定かではなく、創建年も不明ですが、寺伝では室町時代に今の京都御所、昔の内裏の北東にあたる一条高倉にて開創したとあり、「法園寺」または「法音寺」という天台・浄土兼学の寺であったといいます。
室町中期までは八宗兼学の寺院でしたが、その後1501年(文亀元年)に後柏原天皇の勅旨により慶誉(きょうよ)が堀川今出川の舟橋の地に再興、浄土宗寺院となり「報恩寺」に改められました。
その後、天正年間(1573-92)の1585年(天正13年)に豊臣秀吉によって現在地に移転され、秀吉自身も数回来寺しているといいますが、その豊臣秀吉が寺宝の虎図を聚楽第に持ち帰り床に飾ったものの、毎晩夜中に虎が吠えて眠ることができず、すぐに寺に返したところ静かになったというエピソードから「鳴虎(なきとら)」として有名になりました。
この点、この「虎の図」は1501年(文亀元年)に後柏原天皇より下賜されたもので、中国の画人・四明陶?(しめいとういつ)の署名があることから、宋か明の時代に中国で描かれたと推定されています。
水を飲む虎が描かれたもので、その姿は毛の色や長さ、方向が一本一本さまざまに描き分けられており、立体の像に見えることから左右から違って見えるといい、寅年の正月3が日に限り公開されています。
境内の「梵鐘」は平安末期の作で国の重要文化財にも指定されているほか、「撞かずの鐘」の伝説で知られています。
その昔、西陣の機屋はこの鐘の音を聞いて仕事の手を休めたといいますが、ある日寺の近くの織屋に奉公していた丁稚(でっち)と織子(おりこ)が、暮六つの鐘がいくつ鳴るかで口論となり、自分が主張した数の鐘が鳴らなかったために織子が狂い死にしたことから、以後は朝夕の鐘は撞かれなくなり、除夜と大法要のときのみ撞かれるようになったといいます。
現在は大晦日の「除夜の鐘」にて一般の参拝者も撞くことができます。
また門前の石橋は秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に「慶長七年(1602年)」架橋の銘を持ち、本法寺の石橋とともに現在は埋められてしまった小川(こがわ)の名残を止める貴重な遺構の一つです。
この他にも江戸初期の1623年(元和9年)に筑前福岡藩の初代藩主の黒田長政が急死した客殿の上段の間には長政の位牌および長政の父で秀吉の名軍師として知られる黒田官兵衛(如水)の位牌が安置されているほか、快慶作の本尊・阿弥陀三尊像や、織田信長・豊臣秀吉の画像直筆など、多数の国の重文指定の寺宝を有することでも知られています。