京都市北区寺町通鞍馬口下る天寧寺門前町、京都御苑の北側、寺町通と鞍馬口通の交差点の南東に位置する曹洞宗の寺院。
元々は福島県の会津城下にあったといい、創建したのは鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した河内の武将・楠木正成の孫にあたるとされ、越後や東北南部、関東北部の曹洞宗の発展に貢献した禅僧・傑堂能勝(けつどうのうしょう 1355-1427)で、境内にみられる正成の家紋・菊水の紋がそれを物語っています。
その後、天正年間(1573-92)に伊達政宗(だてまさむね 1567-1636)が会津に攻め入ったことから京都へと移されることとなり、1571年(元亀2年)の織田信長による比叡山焼き討ちにより廃寺となった天台宗松陰坊の跡とされる現在地へと移転しました。
その際には上杉家の重臣・直江兼続(なおえかねつぐ 1560-1620)や京都所司代の板倉勝重(いたくらかつしげ 1545-1624)らが復興に力を貸したと伝わっています。
1788年(天明8年)の「天明の大火」では堂宇を焼失していますが、江戸後期の1812年(文化9年)に本堂、1842年(天保14年)には書院を再建。
この本堂と書院はいずれも京都御所で女官が使っていた建物を移築したもので、宮中の建物が寺院の建物として使われているのは大変珍しいことから、京都市の文化財にも指定されています。
本堂には仏師春日作と伝わる本尊・釈迦如来像、観音堂には後水尾天皇の念持仏「聖観音像」および東福門院の念持仏「薬師如来像」を安置。
また境内墓地には江戸前期の有名な茶人で公家流茶道宗和流の初代・金森宗和(かなもりそうわ 1584-1657)とその母親や、剣道示現流の開祖といわれる善吉和尚(ぜんきつおしょう)らの墓があり、とりわけ金森宗和についてはこの他にも縁のあるものが多く残されており、宗和の像をはじめ、宗和が宇治のお茶の木で作ったと伝わる「千利休像」、また宗和の指導を受けた陶芸家の野々村仁清の「銹絵水仙図茶碗(さびえすいせんずちゃわん)」などを所蔵しているといいます。
そして境内の一番の見どころといえるのが「額縁門」と呼ばれる山門からの景色で、山門を通して眺める比叡山の眺望が、まるで額縁に入れた絵画を鑑賞しているかのように見えるところからこのように呼ばれています。
また花の寺としても知られており、しだれ桜や百日紅、椿、秋明菊、もみじなどを楽しむことができます。