京都市中京区、河原町三条の一筋南から東へと伸びる「龍馬通り」沿いに店を構える老舗の材木商。
江戸中期の1721年(享保6年)にこの地にて創業し、初代から「酢屋」という屋号で材木商を営み、子孫が店を受け継いで約300年にわたって同じ土地、同じ屋号で商いを続けていて、現在は10代目で「株式会社 千本銘木商会」とう名前の会社にもなっています。
この点、幕末の6代目・酢屋嘉平衛の代には、材木業を営む傍ら、高瀬川の開墾の許可を幕府より得た角倉家より大阪から伏見、そして京へと通ずる高瀬川の材木独占輸送権を得て運送業も営んでいました。
そしてその嘉平衛の理解もあって、2階には「海援隊京都本部」が置かれて陸奥宗光、長岡謙吉など多くの海援隊隊士が匿われ、「寺田屋事件」の後に入洛した龍馬自身も1867年(慶応3年)6月頃から2階の表通りに面した表西側の部屋を住まいとし「才谷」と名乗っていたといいます。
そのことを示す資料として、1867年(慶応3年)6月24日付で姉の乙女に宛てて送った手紙が残されていて、
「今日もいそがしき故 薩州屋敷へ参りかけ朝六ッ時頃より この文したためました 当時私ハ京と三條通河原町一丁下ル車道すやに宿申し候」
と酢屋に投宿している様子が伝えられています。
当時の酢屋の前は高瀬舟が出入りして舟の荷揚げを行う高瀬川の舟入で、伏見・大阪との連絡も取りやすく、また川沿いには各藩の藩邸が経ち並んでいたことから各藩との折衝にも都合が良く、潜伏先としては最適な場所でしたが、しかしやがて新撰組や見廻り組の情報が入るようになり、危険を感じた龍馬は11月に入り酢屋のやや南にあった土佐藩邸により近い「近江屋」へと移ることとなり、結局はそこで刺客に襲われ、1か月後の明治維新を目にすることなくこの世を去ることとなります。
ちなみに龍馬が暗殺された「近江屋」は建物は現存しておらず石碑があるのみであり、また龍馬が以前に定宿としていた伏見の寺田屋も現存してはいるものの建物は当時のものではありません。
しかし酢屋の建物は一部改築されてはいるものの、基本は坂本龍馬が使用していた幕末時代のものを継続しているといい、今でも建物が現存している貴重な遺構となっており、入口には「坂本龍馬寓居の跡」の石碑も立てられています。
この点幕末当時、幕府と倒幕急進派の双方から命を狙われていた龍馬を匿うことは、当然のように店の命運を左右するほどの重大な事であったため、昭和の時代になってもそのことを口にすることはなかったそうです。
しかし龍馬が果たした役割が評価されるに従って酢屋を訪れる人の数も増えていったといい、現在は1階が昔のままに銘木全般を専門に取り扱う「千本銘木商会」と材木商の伝統を受け継ぐ木工芸品の制作・販売を行う「創作木工芸 酢屋」として営業を続ける一方、2階を「ギャラリー龍馬」として公開し、龍馬を含む海援隊の隊士たちの写真や手紙、酢屋に関する資料などを展示しています。
龍馬が使用していたという2階部分は改築されており、幕末の当時そのままではなく、また当時は2階から見えたという高瀬川の舟入も現在はビルが建っていて見ることはできませんが、龍馬が向かいの舟入に向けてピストルの試し撃ちをしたと伝わる格子窓などが当時の面影を残しているといいます。
毎年龍馬の命日である11月15日には、京都霊山護国神社の「龍馬祭」、近江屋跡での「坂本龍馬・中岡慎太郎慰霊祭」とともに、この酢屋においても龍馬を追悼する「酢屋龍馬祭」が行われ、家の前には祭壇が設けられて献杯が行われます。