京都市中京区河原町通蛸薬師下ル塩屋町にあった醤油屋「近江屋」の跡地。
「大政奉還」直後の1867年(慶応3年)11月15日に土佐藩出身の幕末の志士・坂本龍馬(さかもとりょうま 1836-67)とその盟友・中岡慎太郎(なかおかしんたろう 1838-67)が襲われ暗殺された「近江屋事件」の舞台となった場所として有名で、四条河原町から河原町通を少し上がった蛸薬師通との交差点の南西角には「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」の石標が立てられています。
薩長連合の実現させた立役者として知られる坂本龍馬は1866年(慶応2年)に発生した「寺田屋事件」においてそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿「寺田屋」を幕府に目をつけられて急襲された後は、京都で海援隊本部のあった「酢屋」を定宿にしていましたが、1867年11月28日(慶応3年11月3日)には醤油屋「近江屋」に移っていました。
「近江屋」は四条河原町一帯に土地を持っていた名家・井口家が営んでいた店で、「蛤御門の変」以来土佐藩の御用達となっており、当代の井口新助(1838-1910)は土佐だけではなく薩長の志士たちも支援していたといいます。
11月13日、新選組を離脱した御陵衛士(高台寺党)盟主・伊東甲子太郎(いとうかしたろう 1835-67)と藤堂平助が尋ねてきて、新選組と見廻組に狙われていると告げられ、周りからも向かいの河原町三条にあった土佐藩邸かそれが無理なら薩摩藩邸に入るように勧められたが、龍馬は近江屋に留まり、元力士の山田藤吉(やまだとうきち 1848-67)を従僕として雇い入れ用心していました。
近江屋に移った龍馬は当初は誓願寺への逃亡も容易な土蔵に隠れていましたが、風邪を引いたため暗殺の数日前から母屋の2階に移っていたといいます。
そして奇しくも龍馬の誕生日であった11月15日の夜、龍馬は近江屋を訪ねて来た盟友・中岡慎太郎とともに火鉢を囲んで大政奉還後の政局について論じていました。
風邪気味だった龍馬は、慎太郎とともに暖かい軍鶏鍋(しゃもなべ)を食べたいと思い、小者の峰吉を使いに出していました。
数名の刺客たちは十津川郷士と名乗り面会を求めると、取り次ごうとした藤吉を斬って龍馬と中岡のいた2階の部屋に押し入り、2人に襲いかかります。
そして刺客は帯刀していなかった二人に防戦する暇を与えずに龍馬の額を一刀で断ち割ったといい、額に致命傷を受けた龍馬はほとんど抵抗することもできずその場で絶命し、深手を負った中岡も事件の2日後に失血死しました。
この時龍馬は33歳、中岡は30歳で、1か月後に「王政復古の大号令」が発令され明治維新がなるのを目前にしての無念の最期でした
。
18日、龍馬、中岡、藤吉の三人の遺体は海援隊と陸援隊など関係者によって東山の霊山墓地、現在の京都霊山護国神社に埋葬され、龍馬と中岡の墓碑銘は木戸孝允が筆を執ったといいます。
この点、事件の2日後に絶命した中岡慎太郎の口から現場の様子が語られていますが、結局真犯人は断定されるまでには至っていません。
刺客については当時はもっぱら新選組の犯行によるものと見られていたようで、「戊辰戦争」の後に捕らえられた旧新選組隊士に対して取り調べが行われたものの、いずれも関与を否定しています。
しかしこのうちの一人、大石鍬次郎(おおいしくわじろう 1838-70)が実行犯として「見廻組 海野某、高橋某、今井信郎 外壱人」と自供したため、1869年(明治2年)に「箱館戦争」で降伏し、兵部省と刑部省によって取り調べを受けていた元見廻組隊士・今井信郎(いまいのぶお 1841-1918)が取り調べを受けることとなります。
この今井の自供内容を記した「兵部省口書」及び明治3年の「刑部省口書」によると、
佐々木只三郎
今井信郎
渡辺吉太郎
高橋安次郎
桂早之助
土肥仲蔵
桜井大三郎
自らを含めた7人が暗殺に関わったといい、このうち2階に上がったのは佐々木、渡辺、高橋、桂の4人で、自分と土肥、桜井の3人は1階で見張りをしていたと証言しています。
しかし今井以外の6人はその後1868年(慶応4年/明治元年)に勃発した「鳥羽・伏見の戦い」で全員戦死しており、この時点での生存者を庇っている可能性があり、またそれから約30年後の1900年(明治33年)の「近畿評論」5月号に掲載された彼の談話では、龍馬を斬ったのは自分であり、この他に渡辺吉太郎、桂早之助ともう一人生存している某メンバーがいると語っており、暗殺者の詳細については信憑性が疑われる部分もあります。
また今井以外にも自分が刺客であったことを認めた人物がおり、渡辺篤(わたなべあつし 1844-1915)は1911年(明治44年)の自著の中で
佐々木只三郎
今井信郎
渡辺篤
その他3名の6人(明治13年の原本では世良敏郎を加えて7人としている)が暗殺に関わったとし、自らが父から贈られた刀「出羽大掾藤原国路」で龍馬を斬ったと、弟・渡辺安平や弟子の飯田常之助などに述べているといいます。
このような事実から暗殺のメンバーとしては見廻組を率いていた佐々木只三郎(ささきたださぶろう 1833-1868)のほか、自供した今井信郎と渡辺篤、複数の証言者のいる高橋安次郎と桂早之助などは確実にかかわっていたと思われています。
以上のように複数の証言者があることから、暗殺の犯人は諸説あるものの、現在は幕府の組織下にあった「京都見廻組」が有力とされているようです。
ただしその背景には「大政奉還」によって徳川を武力討伐するきっかけを奪われた薩摩藩や、「いろは丸事件」で海援隊に7万両もの償金を払わされた紀州藩などによる策謀があったともいわれています。
「近江屋事件」のあった当時、龍馬の殺害された近江屋が面していた河原町通は、当時は現在と違い4~5人並んで通れば肩が触れ合うぐらいの道幅の狭い通りでしたが、1927年(昭和2年)に道路の拡張工事を終えてからは街の様子は一変し、電車や自動車が絶え間なく交流する京都随一の主要道路となりました。
そして「近江屋」は1924年(大正13年)からはじまったこの河原町通の道路拡張工事の際に取り壊され、隣にあった骨董商の井筒屋が一部を買収して店舗を拡張。その店頭に1927年(昭和2年)に京都市教育委員会によって石碑が建立されたため、近江屋が実際にあった場所よりもやや北に建てられているといいます。
その後、近江屋の方は新助の子孫が昭和前期まで「近新商店(きんしんしょうてん)」の名で醤油を製造していましたが、戦後に廃業したといい、一方の跡地の方は井筒屋の後は入居する店は転々としたようで、旅行代理店の京阪交通社やコンビニエンスストアのサークルKを経て、現在は2013年(平成25年)12月にオープンした回転ずしのかっぱ寿司の系列店「京のとんぼ」が営業を続けていて、店内は江戸時代の藩邸をイメージした造りになっているといいます。
この点、跡地には長らく石碑が立っているだけでしたが、徐々に整備されて現在は駒札の他に坂本龍馬の有名な写真のパネルが飾られるようになっています。
そして毎年坂本龍馬の命日にあたる11月15日には、河原町商店街の主催で「坂本龍馬慰霊祭」が行われて、同日には酢屋でも「酢屋龍馬祭」、龍馬と中岡の墓がある京都霊山護国神社でも「龍馬祭」が行われ、多くの龍馬ファンや歴史ファンが訪れてその偉業を偲びます。