京都市中京区蛸薬師通河原町東入備前島町、四条河原町の交差点から河原町通をやや北へ、蛸薬師通との交差点を右へ曲がり木屋町の方へ進んだ左側に鎮座する神社。
社伝では、室町初期の1348年(貞和4年)より以前のこと、往昔の鴨川は河原が広く川中の西寄りに中の島(中州)があったといい、そこに備前国西大寺村の新右衛門という人物が移り住んで、中の島の突端(岬)に祠を建て「岬神社」と称したのがはじまりとされ、鎮座に当っては「吾を信ずるものは諸業繁栄福利を与へ、火難を免れしめ、土工建築修工を守護し、一切の災厄を免れしめん」との神託があったと福狐1万個を参詣人に頒けたと伝えられています。
その後、祠は鴨川の西岸に遷されたといい、更に江戸初期の慶長年間、角倉了以(すみのくら りょうい)・素庵(そあん)父子によって京と大阪を結ぶ運河・高瀬川の開削によって木屋町一帯が整備されると、高瀬川西側の備前島町一帯は土佐藩へ下賜されて藩の京屋敷が建てられることとなり、その際に岬神社は藩邸内に遷されることとなり、「お稲荷さん」の愛称で親しまれる倉稲魂命および石栄神の2座を祭神としたため「土佐稲荷」と通称されるようになりました。
藩邸内の人々の信仰は厚く、坂本龍馬や中岡慎太郎らも詣でていたといい、また土佐藩士のみならず、先斗町・木屋町など近隣の町衆からも地域に土着した産土神として熱心な信仰を集め、通常は一般人は入れない所を、わざわざ藩邸内に一般人が自由に土佐稲荷神社へお参りするための通路を確保したほどであったといいます。
その後、1885年(明治18年)に明治維新にともなう廃藩によって土佐藩の京屋敷が売却されることになると、これを聞いた氏子の有志らは祭典永続法を設定し、私祭継続の認可を得て現在地よりやや南の下大阪町に無格社として復興。
更に1887年(明治20年)には神社の衰微を憂いた近江屋初代・井口新助が備前島町の旧地を買い取り、現在地に落ち着き、現在の社殿は1913年(大正2年)に近隣の氏子たちの募金によって建立されたものと伝えられています。
祭神は「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」と「石栄神(せきえいのかみ)」の2柱で、農耕・商売・土木・金工など諸業の繁栄のほか、火難除けなどの災厄除けにも御利益として信仰を集めているほか、龍馬ゆかりの地の一つとして境内には龍馬の写真とやや小さめながらも坂本龍馬の像もあり、また近くには土佐藩邸跡の石碑も設立されています。
氏子地域は北が三条通、南は四条通、東は先斗町、西は新京極で、八坂神社の宮司が稲荷社の宮司を兼ねているといい、年4回の祭典が行われていて、例祭は6月10日となっています。
そして近年氏子たちの力が結集された崇敬会が発足し、1877年(明治10年)から伝わる神輿も修復され、「祇園祭」の後祭の「花傘巡行」の際に子供たちによって担がれます。