京都市下京区朱雀分木町にある市場で、愛称は京朱雀市場。
日本で最初に開設された中央卸売市場で、敷地面積は147,192平方メートル(14.7ha)
この点、京都中央卸売市場は第一と第二で構成されていて、青果と鮮魚・塩干などの水産品を中心に食料品全般を扱う総合食品卸売市場となっいる第一市場のほか、南区吉祥院石原東之口には食肉加工を専門とする第二市場もあります。
京都の市場の歴史は、平安時代の「東西市」に端を発し、時代とともに市場の形が変化してきました。
794年の桓武天皇による平安京遷都の際の市場は東西に一つずつあり、「東西市」と称されて平安時代の400年の間続きました。
市場には市司(いちつかさ)という管理者の仕事をする役所が置かれ、財貨の交易や器物の真偽、度量の軽重、売買価格などを取り締まりまっていたといいます。
次いで鎌倉時代には騒乱の渦中に巻き込まれて東西市は名ばかりとなり、商工業者は「式」のちに「座」とよばれる同業者の組合をつくり、組合員の人数制限や販売地域の指定をして営業上の特権を得て独占的な勢力範囲を維持していました。
その後室町時代には幕府によって京の街は北へと発展して上下の2京に形を変え、それとともに上京では上立売・中立売・下立売の3市場がを設けられたほか、下京では四条立売の市場が許可されました。
しかしその後幕府が財政窮乏に陥り、悪政によって市場が踏みにじられて暴動が起きるようになり、「応仁の乱」により京の街は廃墟となります。
しかし戦国時代に織田信長が台頭すると、営業上の特権を持つ商人たちの「座」が廃止され、誰もが自由に営業できる「楽市楽座」と称する自由市場が設けられ、続く秀吉も信長の意志を継いで自由な商取引を推奨しました。
江戸時代に入ると今日にもつながる市場の株制度が確立します。
問屋は業ごとに組合が設けられ、申し合わせ条項を定め、一定の冥加金の上納と引き換えに特別の保護を受け、各自が定めた仲買人には鑑札を渡して携帯させ、取引にはその仲買人以外は参加させないことで、同業者数の制限して独占的な権益を維持するとともに、これらの特許の専業は「株」と称して世襲されていきました。
元和年間(1615~23)には幕府により初めて魚問屋の称号が許可され、万治(1658-60)~寛文(1661-72)年間には上の店、錦の店、六条店の3つ魚市場、1774年(安永3年)には問屋町、中堂寺、不動堂が3つの青果市場、西納家が塩干魚市場と定められています。
その後、明治維新により江戸期以来の株式制度は廃止されて一般に鑑札を下されることになり、市場も全く個人の自由開放に委ねられますが、同業相互の競争が激しくなって廃業者も続出。
そんな中で起きたのが1918年(大正7年)の「米騒動」で、米価格の急騰に端を発した暴動は100万人規模の全国的な民衆の暴動に発展。政権を揺るがしかねない大事件を経験した政府は、米や食料品などの生活必需品を安価に供給して国民生活の安定を図る事を急務と考えます。
そのためには公設小売市場の機能を十分に発揮させるための中央卸売市場の設置が必要であるとの結論になり、1923年(大正12年)3月に公布されたのが「中央卸売市場法」でした。
そして同法の公布を受けて全国に先駆けて日本で最初の中央市場として開設されたのが「京都市中央卸売市場」で、1925年(大正14年)6月2日に開設許可を得て、1927年(昭和2年)12月11日に現在地に開設。
開設と同時に鮮魚部、塩干魚部および乾物部が開市され、翌1928年(昭和3年)1月16日には青果部が開市されています。
全国的にもたいへん注目され、これをきっかけとして、各地に次々と中央卸売市場が設立されるようになり、以後は日本の食料品供給センターとしての役割を担うことになります。
戦時中には統制のため仲買制度は一度廃止されたものの終戦後に復活し、新時代に適応するため昭和30年代の中央卸売市場法の改正、更には1971年(昭和46年)の業務の適正かつ健全な運営を確保するための規定の整備強化を図るための「卸売市場法」を経て現在に至っています。
国内外から大量・多品種の生鮮食料品等を集めて、需要と供給を突き合わせて適正な価格を付け、また衛生に関する専門的な知識と技術を持った職員が検査・監視することで、多種多様な生鮮食料品等の安全・安心を確保しながら、安定的な供給を続けて「京の食文化」を食材供給の面から支えている。
市民の食生活に関係する施設のため普段は関係者以外は入れない場所も多いですが、学校関係など「社会見学を目的」とする見学を受け付けており、せりの見学もできるほか、毎月第2土曜日の「食彩市」や11月23日の「鍋まつり」など各種イベントも開催されていて、当日は多くの来訪者で賑わいます。
その市場守護の神様として第一市場の駐車場の中に祀られているのが「市姫神社(いちひめじんじゃ)」で、1927年(昭和2年)に日本で初めて中央卸売市場として開設されたのと同時に、市場守護の神様として本塩竈町にある本社・市比賣神社より分祀され現在地に創建されました。
市比賣神社は平安遷都の翌年の795年(延歴14年)に、桓武天皇の勅命により左大臣・藤原冬嗣が、平安京の東西両京に設けた常設市場である市座の守護神社として、七条坊門、現在の七条堀川の西本願寺付近に筑紫の宗像大神を勧請して創建。
その後1591年(天正19年)に西本願寺の建設のため豊臣秀吉が現在地の本塩竃町に移したと伝えられています。
市比賣神社は、市場の交易や商売繁盛、また女神を祭神とすることから女人守護の神としても、皇室や公家から民衆まで広く信仰を集め、現在では市場・商売の守護神として全国に多くの分社があり、その一つがこの京都市中央卸売市場の市姫神社です。