京都府宮津市宮本、宮津市役所のやや西側、宮津市の中心街に鎮座する神社。
創建年代は不詳ですが、創祀は室町以前、神代に遡るともされていて、かつては本殿の東側に現在も存在している「水越岩(みずこしいわ)」の辺りまでが海辺で、当地は港であったと考えられ、この巨石を神の依代・ご神体として崇めたのが当社のはじまりで、「宮(神社)のある津(港)」であることから「宮津」の地名の発祥の社となったといわれています。
そして室町時代の1421年(応永28年)に社殿が建立され、更に1470年(文明2年)には時の守護職であった一色氏によって丹後国一宮である籠神社の祭神が合祀されてその別宮とされ、以後「丹後一宮別宮総社」「江の島の宮」「和伎の宮」「分宮」などと称したのを経て、近年「和貴宮神社」と改称して現在に至っています。
宮津の旧城下町は西堀川を境界線として東町と西町に大きく分けられ、西地区は「山王宮日吉神社」の氏子圏である一方、東地区は「和貴宮神社」の氏子圏とされており、旧宮津地区東部の産土神として五穀豊穣、産業発展、ならびに豊漁・航海安全の神であるとともに和合円満、方位八方の守護神として人々から崇敬を集めています。
更に江戸時代に入ると北前船の往来によりその敬神範囲は西日本全体にまで飛躍的に拡大し、境内の玉垣には寄進者として豪商として知られた加賀の商人・銭屋五兵衛(ぜにやごへえ 1774-1852)などの著名な商人の銘も刻まれています。
現在の本殿や拝殿、表門などはいずれも江戸後期の建造で、その当時神社前の宮本町が大工町で「北前船」を作っていた関係から、地元の大工が丹精こめて作った社殿には素晴らしい彫刻が施されているほか、殿内には横山華山、松川龍椿といった著名な都の絵師の手による絵馬の大作が奉納されています。
行事としては宮津の旧城下町に氏子地区を持つ西の山王宮日吉神社と東の和貴宮神社の祭礼で、毎年5月15日に開催される「宮津祭」が有名。
宮津祭の名は山王宮日吉神社の「山王祭」が江戸時代に藩祭とされ、町衆のみならず武士までもがこぞって参加したことから名付けられた俗称ですが、元々9月11日に行われていた和貴宮神社の祭礼が第二次世界大戦後に山王宮日吉神社と同じ日に統一して開催されるようになり、現在は2つの神社の祭典を合わせてそう呼んでいて、それぞれの氏子たちが神輿を中心に神楽、浮太鼓で町内を練り歩きます。