京都府与謝郡伊根町字本庄浜、天橋立の北方、丹後半島の東側にある伊根の舟屋から更に北へ車で約20分、経ヶ岬方面へと向かう途中にある浦嶋伝説ゆかりの社として有名な神社。
創始年代は第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう 786-840)の825年(天長2年)、浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀ったのがはじまり。
その大祖は月讀命の子孫で当地の領主・日下部首(くさかべのおびと)などの先祖であると伝わっています。
伝承によれば、浦嶋子は478年(雄略天皇22年)7月7日、美婦に誘われ常世の国へ行き、その後300有余年を経て淳和天皇の825年(天長2年)に帰ってきた。
常世の国に住んでいた年数は347年間で、淳和天皇はこの話を聞き、当時の丹後の豪族であった浦嶋一族の業績を称えて浦嶋子を筒川大明神と名付けて神格化し、小野篁(おののたかむら 802-53)を勅旨として派遣し社殿が造営されたといいます。
なお浦嶋神社に伝わる浦嶋太郎伝説は日本最古の歴史書である「日本書紀」に記されたもので、全国各地に伝わる浦嶋伝承よりも最も起源が古いとされていて、「丹後国風土記」や「万葉集」にも同様の「浦嶋子」が登場していますが、これらの物語では中国道教の神饌思想の影響を受けていて、竜宮城ではなく神女に誘われ蓬山(常世の国)へ至るとおいう物語で、また浦嶋子は当地を治めた地方豪族の領主であり、民間伝承ではなく貴族や公卿などの支配層を中心に伝わったものであったといわれています。
この点、現在よく知られている「浦島太郎」は、
浦島太郎は浜で子供たちにいじめられていた亀を助けた恩返しとして海の中にある竜宮城へと招かれ、乙姫らのもてなしを受けた後、帰り際に「開けてはならない」と念を押されつつ玉手箱を渡される。
故郷に帰り着くと、龍宮で過ごしたと感じたよりも遥かに長い年月が経っており、知っている人は誰もおらず、失意の余り忠告を忘れて玉手箱を開けてしまうと、中から白い煙がもくもくと立ちあがり、浦島太郎は白髪の老人になってしまう
という話ですが、この昔話に登場する「乙姫」「竜宮城」「玉手箱」「亀の恩返し」などの要素が加わったのは室町から江戸初期にかけて綴られた小説集「御伽草紙(おとぎそうし)」によるものだといいます。
かつ領主であった浦嶋子が両親を養う漁師の青年という民衆の身近な存在として描かれたことにより大衆に広く受け入れられて全国に伝わるようになり、更にその後1896年(明治29年)に「桃太郎」や「花咲爺」などを児童文学として再生し日本近代児童文学の開拓者として知られる作家・巌谷小波(いわやさざなみ 1870-1933)が子供向けに書いた日本昔話で現在の浦島太郎の話に書き換えられ、1911年(明治44年)には「尋常小学唱歌」として有名な「浦島太郎」が作られ、日本人なら誰もが知っている代表的な昔話の一つとなったといわれています。
そして当社は「宇良神社」とも呼ばれ、平安中期927年(延長5年)にまとめられた当時官社に指定されていた全国の神社一覧「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」においては「宇良神社(うらのかむやしろ)」と記されている式内社に比定されており、遷宮の際には神事能が催され、その都度領主の格別の保護が見られたといい、また南北朝時代の1339年(暦応2年)には征夷大将軍・足利尊氏が来社し幣帛、神馬、神酒を奉納するなど、古代より当地域一帯に留まらず広域に渡り崇敬を集めていたといいます。
現在の社殿は幕末1864年(元治元年)4月13日の火災による類焼・焼失の後、1884年(明治17年)5月に再建されたもので、丹後地方に分布する神明造系本殿の好例として2013年(平成25年)11月に「国登録有形文化財」に登録。
この点、拝殿正面の見事な彫刻は江戸期に活躍し「西の左甚五郎」といわれた丹波柏原藩(兵庫県丹波市)の宮大工・中井権次(8代目正胤)の作で、また社殿は北極星を向いて造営されていますが、これは道教の影響から北極星信仰によるものと考えられています。
また当社には浦嶋伝説にちなんだ室町期作の「玉手箱(亀甲紋櫛笥二合)」や、室町中期から桃山時代にかけての見事な文様が施されている国指定重要文化財の「乙姫小袖」、日本最古といわれる浦嶋太郎物語が細かく描かれた同じく国指定重要文化財の「浦嶋明神縁起絵巻」などが伝わっており、これらのいくつかは境内の宝物資料室にて展示されており、有料にて宝物の見学や浦嶋物語の歴史説明、掛幅を使った絵解きを聞くこともできます。
この他にも神社のそばには浦島太郎と乙姫のモニュメントが建てられた「水の江里 浦嶋公園」やレストランや休憩所となっている「浦嶋館」などがあるほか、周辺には浦嶋子の両親を祀る「大太郎嶋神社」や浦嶋子が常世の国から帰ってきた際に通ったとされる「龍穴」、更には浦嶋子の兄弟である「曽布谷次郎の屋敷跡」など、浦嶋伝説ゆかりの地がいくつか点在しており、当社と合わせてゆかりの地めぐりをするのもおすすめです。
行事としては毎年3月17日に五穀豊穣や長寿、縁結びなどを祈願するとともに、春を迎えて農作業を始める前に浦嶋の神から授かる福を分け合う「延年祭」の神事が良く知られています。
浦島子に仕えたと伝わる三野家の子孫たちが代々取り仕切って行われるお祭りで、まず拝殿に参集して神事が執り行われた後、くじの購入者に対する「福棒」と呼ばれるくじ引き、続けて参拝者に対する小餅や立花の振る舞いと続き、最後に本殿にて観世能の流れを汲むという伝統舞踊「翁三番叟」が奉納されます。
この点、この祭に欠かすことができないのが、「立花(タチバナ)」と呼ばれる縁起物の木で、朴の木(ほおのき)を薄く紐状に削って俵に見立てた花や繭(まゆ)に見立てた蕾(つぼみ)を作り、出来た細工を真綿にくるんでチシャの木に括り付けたもので、これは農耕(俵)と養蚕(繭)が漁業とともにこの海の里の産業であったことを示すものと考えられていて、これを花神饌として浦嶋大明神に捧げて五穀豊穣や商売繁盛を祈願し、神事の後には参拝者にふるまわれて皆で福を分かち合います。
また別名「福棒祭」とも言われるようにくじで「福棒」と呼ばれる縁起物を引き当てた人は願いが叶うとされることから、参拝者は福棒を当てるために多くのくじを買い求めるといい、くじ引きが始まると数字が読まれる度に皆が一喜一憂し大いに賑わいます。
そして祭りの最後に奉納される「翁三番叟(おきなさんばそう)」は元々は筒川地区河来見(かわくるみ)集落の三柱神社に伝わる伝統芸能で、創始年代は不明なものの江戸初期頃から日照りが続いたときの雨乞いの祈りや、屋根の葺替えなどの重要な神事が行われる場合に限って上演されたと伝わっていて、その後途絶えていたものを1988年(昭和63年)に地元の有志で結成された「翁会」が40年ぶりに復活させ、以降は毎年延年祭にて奉納されているといい、当日は「翁会」のメンバー3人がきらびやかな衣装を身にまとい翁の面をつけて伝統の舞を披露します。