京都府京丹後市、KTR「久美浜」駅より北西へ約300mほどの場所に位置にある全国で唯一四道将軍として知られる「丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)」を主祭神として祀る神社で、「神谷太刀宮」「太刀宮」の通称で知られています。
「日本書紀」によると、第10代・崇神天皇の時代の紀元前88年(崇神天皇10年)9月、天皇は天下を征するため各地に「四道将軍」を派遣したとの記述がありますが、勅命を受けて派遣された4人の将軍とは、
大彦命(おおひこのみこと)を北陸に、
武渟川別(武淳川別命)(たけぬなかわわけ)を東海に、
吉備津彦命(きびつひこ)を西海(山陽地方)に、
丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を丹波(山陰地方)に
をそれぞれ派遣したと記されています。
このうち丹波道主命はまたの名を丹波比古多多須美知能宇斯大王といい、四道将軍中の随一といわれた人物で、平定のため山陰地方に向かうのに際して、御本社より南西へ約2km、丹後と但馬の国境である神谷の里・明神谷(現在の大字神谷小字明神谷)に、出雲国より八千矛命(やちほこのかみ)、天神王命(あまのかみたまのみこと)、天君子命(あめのたねこのみこと)の三座の神々を迎えて社を創建。
当時強大な文化を有していた出雲の人々の人心を掌握するとともに武運長久と前途の平安を祈願し、大和朝廷に従わせるようにしたのが「神谷神社」のはじまりと伝えられています。
丹波道主命は山陰地方平定の後、国人となって永く久美浜の地に留まり、熊野郷河上庄(現川上地区)の豪族の娘・河上麻須郎女(丹波河上摩須郎女)を妃として四子をもうけ、その一人である日葉酢媛は第11代・垂仁天皇の皇后となったといいます。
その後、道主命の亡き後に人々がこれを追幕し、現在地の小谷の里を選んで神社を創建しますが、この際に道主命所有の神剣「国見剣(くにみのつるぎ)」を神霊として祀ったことから「太刀宮(たちのみや)」と称されるようになりました。
ちなみにこの国見剣の「国見」が訛って「久美」となり「久美浜」の地名の由来になったともいわれており、また宝剣は奈良朝の頃に紛失して現存していないといいます。
その後、奈良時代に小谷の里の「太刀宮」に丹波道主命が創建した「神谷神社」の出雲国の神々を合わせて祀り、両社が合祀され「神谷太刀宮大明神」となり現在の形となりました。
以来小谷の里を神域とし、丹後、丹波、但馬一帯の人々から崇敬を集め、平安中期の醍醐天皇の代に制定された「延喜式」神名帳(927年の法令)にもその名が見られますが、中世に一時衰退・荒廃します。
しかし神谷太刀宮の信仰は後世に受け継がれ、この地を治めた武将や城主、久美浜代官などに尊崇され、社領の安堵や田地の寄進などにより徐々に復興が進んだといい、社蔵文書によると1596年(文禄5年)には城主・松井康之から用地寄進を受けています。
江戸時代には町衆の台頭と共に神域・社殿が整備され、現在の本殿は1781年(天明元年)に再建されたもの。
出雲地方に見られる大社造の特徴を備えた屋根組み、各所の彫刻など神社建築の秀作で、特に「太刀宮造」と呼ばれる独特な建造物で、京都府の指定文化財にもなっている建造物です。
この他にも境内の鳥居は石造明神鳥居で、1707年(宝永4年)に建てられたもので京都府の登録文化財となっているほか、境内の参考館(考古館)は、旧久美浜県庁舎の玄関棟の建物の一部が移築されたもので、明治初期の武家屋敷の流れを汲む役所建築として貴重な建造物です。
境内地一帯は、京都府文化財環境保全地区に指定されており、また道路を挟んだ境内西側の八幡山の山麓に巨石があり、自然崇拝の「磐座(いわくら)」の様相を呈し、古代祭祀の跡と考えられ、パワースポットとして注目を集めています。
行事としては毎年10月上旬に開催される「神谷太刀宮大祭」が有名です。