京都府綾部市安国寺町寺ノ段にある臨済宗東福寺派の寺院。
山号は景徳山、本尊は釈迦三尊坐像。
平安中期の993年(正暦4年)に平安時代の僧・恵心僧都源信(えしんそうずげんしん 942-1017)作と伝わる地蔵菩薩を本尊に「光福寺」として創建されたのがはじまり。
鎌倉時代の1252年(建長4年)、第88代・後嵯峨天皇の第1皇子で後続で初めて征夷大将軍となった鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王(むねたかしんのう 1242-74)の側近として活躍した勧修寺重房(上杉重房(うえすぎしげふさ 生没年不詳))が上杉荘を賜り「上杉」の姓を称するようになると上杉氏の菩提寺となり、釈迦三尊を合わせて祀ったといいます。
その後、時代は室町幕府を迎えますが、初代将軍となった足利尊氏(あしかがたかうじ 1305-58)の生母・上杉清子(うえすぎきよこ 1270?-1343)は上杉一族の出身で上杉重房の孫にあたり、同寺院は尊氏が出生した地ともいわれていて、1305年(嘉元3年)に尊氏が誕生すると上杉・足利両氏の尊崇を受けるようになります。
更に尊氏が足利幕府を開いた後の1338年(暦応元年)には、尊氏とその弟・足利直義は夢窓疎石の勧めによって元弘の戦乱以降に亡くなった多くの戦没者の霊を慰めるため、奈良の国分寺にならって約10年かけて全66か国および2つの島に寺院と仏舎利2粒を納めた塔の1寺1塔をそれぞれ建立することとなりますが、それらは1345年(興国6年/貞和元年)2月6日の光厳上皇の院宣により「安国寺・利生塔(りしょうとう)」と名付けられることとなります。
そして丹波国の「安国寺」とされることとなったのが光福寺で、諸国の安国寺の筆頭に置き、更に1342年(康永元年)には南禅寺に住した天庵妙受を招請して安国寺の始祖とし、多くの寺領を寄進しました。
それ以降、塔頭16、支院28を有し、1371年には諸山、1414年には京都十刹にも列する大寺院として栄えますが、江戸中期までに大半の寺領が没収され塔頭・支院も減少。
現在の伽藍は江戸中期1735年(享保20年)6月の山津波で裏山が崩れ、仏殿ほか諸堂が倒壊・埋没した後に整地されたものです。
境内には1743年(寛保3年)に再建された茅葺きの屋根が珍しい「仏殿」のほか、数多くの重要文化財や府・市指定文化財に指定された建物などがあり、足利尊氏ゆかりのものとしては仏殿の本尊・釈迦三尊の右に安置されている地蔵菩薩が尊氏の母・清子が男子出生を祈願し無事に尊氏を生んだと伝えられ、現在も「子安地蔵」として信仰を集めているほか、その他にも尊氏誕生の際に使用されたという「産湯の井戸」や尊氏とその母・上杉清子の墓と伝わる宝篋印塔などが伝わっています。
また緑豊かな境内は春は桜、秋は紅葉が美しいことで知られていて、とりわけ秋の紅葉は境内の約100本の楓が見事に色づき、見事の時期の毎年11月中旬には「安国寺もみじ祭り」も開催され、当日は野点や琴の演奏のほか、模擬店や各種イベントなども開催され多くの参拝客で賑わいます。