京都府福知山市三和町大原、京都府の西端、福知山市街より東南へ約20km、綾部市街より南へ約10kmの三和町の山奥に鎮座する神社。
社伝によると平安初期の第55代・文徳天皇の時代の852年(仁寿2年)3月23日、北桑田郡野々村樫原(現・京都府南丹市美山町)より遷座し、国司(くにつかさ)・大原雅楽頭(うたのかみ)が社殿を造営し、同年9月28日に遷宮したのがはじまりとされ、その後、戦国時代の1573年(元亀4年/天正元年)に明智光秀が領主となる際に戦国混乱の戦禍に遭遇し、社殿および記録などをことごとく焼失しますが、江戸期に入り1633年(寛永10年)に九鬼氏が綾部藩主となってからは代々崇敬が篤く、明暦年間(1655-58)には旧態に復したといい、現在の社殿は江戸後期の1796年(寛政8年)に再建されたもので、拝殿唐破風の「龍の丸堀り」などの彫刻に見ごたえがあるといい、本殿・幣殿・拝殿は1984年(昭和59年)に京都府指定の有形文化財となっています。
また茅葺き屋根の「絵馬殿」は1863年(文久3年)の再建で、舞台では浄瑠璃、農村歌舞伎などが演じられたといい、現在は江戸時代に奉納された多数の絵馬が飾られており、絵馬の量・質は丹波一を誇るといい、こちらも京都府指定の有形文化財です。
当社に参詣することを古くより「大原志(おおばらざし)」といい、俳句の季語として詠まれたほか、近松門左衛門の浄瑠璃にも採り上げられ、安産祈願・万物生産の神様として公卿諸侯の参拝も多かったといい、社記には公家の清水谷家、北大路家、日野大納言家、宇和島藩主・伊達家などの安産祈願の記録が残っているといいます。
また江戸時代には社勢を伸ばすために配札所が設けられ、山城地域の配札拠点となったのが、京都市下京区善長寺町の綾小路通沿いにあり京都の三大祭「祇園祭」の山鉾の一つである「綾傘鉾」の会所となっている「大原神社」だといいます。
更に大原神社を語る上でもう一つ外せないのが、神社前の川を隔てて対岸にある「大原の産屋(うぶや)」で、大原では女性は出産の際に12把のワラ(うるう年は13把)を持ち込み、出入口に魔除けとして古鎌を吊り、7日間籠って出産していたといい、この習俗は大正年間まで、また産後に三日三晩(ないし1日1夜)籠る習慣は1948年(昭和23年)頃まで続いていたといいます。
建物自体も非常に貴重なもので、茅葺き・切妻屋根をそのまま地面に伏せたような形の「天地根元造(てんちこんげんづくり)」という古事記にも著された「戸無き八尋殿」を想像させる古い建築様式を模倣しており、古くより使われていましたが、現存するものとしては国内唯一ともいわれ、古来のお産の習俗を今に伝える建物として京都府有形民俗文化財に指定されています。
更に大原神社と合わせた周辺一帯は福知山市の「福知山十景」となっているほか、「美しき命の源流・うぶやの里・大原」として京都府景観資産に登録されています。
また産屋を神、先祖との連続した魂の再生の場、聖なる時空と見て、内部の土間の砂は「子安砂」と呼ばれ、大原神社の安産の神符として授けられ、安産の聖地「うぶやの里」として信仰の対象にもなっているといいます。
この他にも町並みを一望できる山腹に位置する緑豊かな境内には江戸期に再建された本殿や茅茸屋根の絵馬堂が配置され、神社近くには全国的にも数少ない産育習俗を伝える産屋が保存されているなど、歴史的風土が保持されているとして神社の森一帯が「大原神社文化財環境保全地区」となっているほか、「京都の自然200選」にも選定されています。