「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」は京都府福知山市西中ノ町、福知山駅の北側に広がる福知山市の市街地の中心、旧城下町の北西に鎮座する神社。
両サイドに商店が建ち並ぶ広小路通りを参道に境内東側に御霊公園が隣接して市民憩いの場となっており、また広小路通りの脇道にもアーケードの新町商店街などがある市街でも賑やかな場所に立地しています。
元々は現在よりやや東側の福知山城下の元紺屋町の大榎のある霊域に保食神(うけもちのかみ)とも呼ばれ五穀豊穣・商売繁盛の守護神である宇賀御霊大神(稲荷神)を祀っていた稲荷社に、江戸中期、朽木稙昌の代の1705年(宝暦2年)に明智光秀の霊を併せ祀ったのがはじまり。
その後、藩政も安定してきた5代藩主・朽木玄綱(くつきとうつな 1709-70)の代に明智光秀が「本能寺の変」にて主君・織田信長を討ったとして逆臣とされている一方、丹波の地において諸豪族が割拠していたものを平定して一つにまとめ、その拠点として福知山城を近世城郭に改修し、由良川に長い堤防を構築してまた由良川の付け替えを行って流路を転ずることで川の氾濫を防ぎ、城下町を建築するに当たっては税金を免除するなどの数々の善政を敷いたとして住民たちから崇敬を集めてきた光秀の合祀が許可され、1737年(元文2年)には「御霊会」が行われて子供相撲や造り物で賑わい、その後は時が経つほどに盛大となり三丹一の大祭「御霊祭り」として知られるようになったといいます。
一般的に「御霊信仰(ごりょうしんこう)」とは、恨みを持って亡くなったり、非業の死を遂げた人がいた場合、その後に起きる天災や疫病などをそのことが原因と結び付けて考え、御霊を祀ることで霊を慰め災厄を祓おうとする考え方で、菅原道真の天神信仰がよく知られていますが、この御霊信仰に結び付け、本能寺の変の後の山崎の戦いで非業の死を遂げた光秀の御霊を鎮めることで災害を防ぐとすることで、これまで逆臣とされてきた光秀を神として合祀することが許されたと考えられていて、現在の「御霊神社」の社名もこれにちなんだものだといいます。
そして1917年(大正6年)(1918年(大正7年とも))に広小路を西へ拡張するにあたり、やや西側の現在地に移されていて、現在は祭神・明智光秀の紋である桔梗紋が目立つほか、御神体として納められていた光秀の真筆「和久左衛門太夫長利追及下知状」など市の指定文化財となっている古文書3点をはじめとする光秀関連の貴重な史料を有するなど、光秀ゆかりの神社として知られています。
境内には本殿の他にも境内社がいくつかあり、このうち本殿右隣の恵比須神社は元々は広小路に鎮座していたときの旧本殿で、現在は事代主大神(恵比寿)を祀り毎年1月9・10日の「初えびす」で賑わうことで知られていて、その他に福島稲荷大神・秋葉大神・天満大神・養蚕大神の計5柱を祀る五社造りとなっています。
また境内北側の堤防神社は堤防が御神体となっている全国でも珍しい神社で、1927年(昭和2年)に福知山市街地を守るために築かれた大堤防の完成を機に建立されたもので、現在の建物は1984年(昭和59年)に建立されたもの。
1931年(昭和6年)からは水害から市民の生命財産を守る堤防に感謝するとともに由良川の治水を祈願して「堤防祭り」が毎年8月15日に開催され、式典の後、堤防のお祓いや御輿の巡行などが行われます。
そして行事としてはこの他に10月第1日曜日に開催される「御霊大祭」が有名で、式典のほかに琴や舞楽の演奏、甘酒や綿菓子の無料接待があるほか、大祭に合わせて御霊公園や広小路通りに屋台やイベント、飲食ブースなどが出店する「丹波福知山御霊まつり(丹波光秀ききょうまつり)」も開催されて多くの人で賑わいます。