京都府福知山市内記、福知山盆地の真ん中、JR・丹鉄の福知山駅から東へ徒歩約15分の所にある日本の城跡および城跡に整備された史跡公園。
戦国武将・明智光秀(あけちみつひで 1528?-82)が築城したことで知られ、築城当時の石垣が残り、その上に復興天守も建てられ福知山のシンボルとして親しまれています。
福知山市東部の小丘陵に位置し、元々は源頼朝の挙兵に加わり、源義仲討伐、奥州藤原氏征討、承久の乱などで功績を挙げ、弓馬術礼法小笠原流の祖として知られる小笠原長清(おがさわらながきよ 1162-1242)の末裔とされる塩見頼勝(しおみよりかつ)が室町後期に「横山城」として築城し近隣を支配していました。
戦国時代、畿内を押さえた織田信長は豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じ、秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より進軍することとなり、1579年(天正7年)、横山城の横山信房を討ちまず丹波国の平定を果たします。
そして主君・織田信長から丹波の地を与えられると、近世城郭として横山城の大規模な修築を行い「福智山城」と改め、斎藤利三とともに光秀の重臣の一人で女婿ともいわれる明智秀満(あけちひでみつ 1536-82)が城代に任命されています。
しかし1582年(天正10年)、「本能寺の変」の後の「山崎の戦い」で光秀が羽柴秀吉(はじばひでよし 1537-98)に討たれると秀吉方の城となり、羽柴秀勝の配下から青山氏、桑山氏を経て小野木重勝(おのぎしげかつ 1563-1600)が3万石で城主となりますが、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で東軍の徳川方が勝利すると西軍に与した重勝は切腹。
戦後に東軍に属した遠江国横須賀の大名・有馬豊氏(ありまとようじ 1569-1642)が6万石の福智山藩主として入城。直後に亡くなった父親の遺領2万石を継承して8万石の大名となり、初代藩主として城を修復して完成させるとともに城下町を整備するなど、福知山の町の基礎を築きました。
その後、豊氏は「大阪の陣」での功績が認められて1620年(元和6年)に筑後国久留米に21万石を与えられて転封となると、岡部・稲葉・松平と城主の交替が繰り返されますが、1669年(寛文9年)に常陸国土浦藩の朽木稙昌(くつきたねまさ 1643-1714)が3万2千石で入封し「福知山城」と改名すると、以後は藩政が安定し朽木氏の支配が明治まで、稙昌を含めて14代続くこととなります。
しかし時代は明治時代となり、明治維新後の1871年(明治4年)に「廃藩置県」で福知山藩が廃藩となると、これに続く1873年(明治6年)の「廃城令」によって二の丸御殿などほとんどの建物は解体され、本丸以外の城域は廃城後に開発が進められた結果、そのほとんどが失われてしまい、本丸にわずかに残された石垣と二の丸から本丸に移築された銅門番所(あかがねもんばんしょ)が残るのみとなってしまいます。
もっとも市民の間では福知山城復元にかける思いは熱く、昭和期に入るとその機運が一層高まり、市民の瓦一枚運動などで寄付を募るなどし、1986年(昭和61年)11月、多くの人々の熱意が実り天守閣が復元されることとなります。
松平氏時代の絵図、平面図をもとに、城郭研究の権威で東京工業大学名誉教授であった工学博士・藤岡通夫が復元設計し、3年の歳月をかけて3層4階の大天守と2層2階の小天守、そして間をつなぐ続櫓を再建。
鉄筋コンクリート製ですが外観は忠実に復元されており、大天守の二重櫓に入母屋の大屋根をかけ更にその上に小望楼を乗せた姿は近世初期の望楼型の天守閣の特徴をよく表しているといいます。
この点、この復元した天守は昭和期のものですが、本丸部分の「石垣」は築城当時のものが残っており、「福知山城」の遺構に見られる大きな特徴としてよく紹介されます。
近江国の琵琶湖西岸を拠点とした穴太衆が得意としたことから「穴太積み(あのうづみ)」ともいわれた、自然石を加工せずそのまま用いる野面積みと呼ばれる石の積み方で、一見豪快かつ乱雑に見えますが パズルを解くように緻密な計算で組み合わせ強固な石垣がが構築されています。
そして注意して見てみると、たくさんの墓石や石仏、五輪塔や宝篋印塔などが石材の代用として使用されているのが分かりますが、これらの石は「転用石」といい、石材を素早く確保することで城の完成までの工期を短縮するため、あるいは旧勢力の力を否定し権力を誇示するためなど、様々な理由があるといいますが、合理性を重んじた織田信長やその家臣の城ではよく見られるもので、安土城や二条城などにも見られるといいますが、数の多さでは大和郡山城と並んで群を抜いているといいます。
これらの石垣を含めた城の遺構は1965年(昭和40年)10月14日に福知山市の史跡に指定されていて、現在は「福知山城公園」として整備されていて、市民の憩いの場となっています。
また天守の内部は「福知山城天守閣」として城に関する資料や福知山の歴史や文化財を紹介・展示する郷土資料館として公開されており、望楼からは福知山市内を一望することができます。
この点、福知山城は盆地の真ん中にある小高い丘の上に建っていることからその眺めは見事なもので、また高い場所にある「福知山城」は市街地の離れた場所からもその姿を見ることができ、市のシンボル的存在となっていて、その景観の美しさから「日本の歴史公園100選」、また2017年(平成29年)には「続日本100名城(158番)」にも選定されています。
明智光秀の福知山の統治はわずか3年間でしたが、税金の免除や由良川の治水工事を行うなど福知山の基礎を築くとともに善政を敷いたことから地元では現在も名君として大変親しまれており、城の北西にある御霊神社では光秀を祭神として祀られ、またお盆の時期には光秀が福知山城を築いた際に人夫が石材や木材を運ぶ時に「ドッコイセ」「ドッコイセ」と手振り、足振り面白く唄りながら作業を行ったのがはじまりと伝えられる「福知山音頭」をメインイベントとする「福知山ドッコイセまつり」が開催され、光秀の功績を偲ぶことができます。
この他にも春は桜の名所としても有名で、例年4月上旬にはソメイヨシノが城内のあちらこちらで花を咲かせ、天守閣を美しく引き立てます。