丹波大文字の姫髪山山麓に位置する「丹波のもみじ寺」
臨済宗南禅寺派。福知山西部丹波大文字の姫髪山麓に位置。
聖徳太子の弟麻呂子親王が大江山鬼退治の戦勝祈願に薬師如来を刻み奉納、1544年福知山初代城主杉原家次が再興。
丹波のもみじ寺として知られ室町期の仏涅槃図、水琴窟もある薬師三尊四十九燈の庭、樹齢600年の授乳のイチョウも見所。福知山十景
長安寺(丹波国もみじ寺)のみどころ (Point in Check)
京都府福知山市奥野部にある臨済宗南禅寺派の寺院。
寺伝によると、飛鳥時代に第31代・用明天皇(ようめいてんのう ?-587?)の第3皇子で聖徳太子の実弟・麻呂子親王(まろこしんのう)が、勅命によって丹波国の大江山に棲む鬼賊征伐に向かう途中、戦勝祈願のため薬師如来像7体を刻み、そのうちの一体をこの地に祀ったのがはじまり。
平安末期には薬師如来を本尊とする真言宗の鎮護道場として金剛山善光寺が創建され、25か寺の坊を有し三重塔や諸堂を完備し栄えていましたが、室町時代の1394年(応永元年)の火災によって諸堂が悉く焼失。
それから数十年後の1474年(文明6年)に世界遺産・天龍寺の開山として知られる夢窓国師の法を継ぐ悦堂が七堂伽藍を整備して再建し、禅宗寺院に改めるとともに「瑞鳳山長安寺」と号しました。
その後も戦乱が続き焼失と再建が繰り返されますが、世は戦国時代となり1582年(天正10年)、「本能寺の変」に続く「山崎の戦い」に敗れた明智光秀の後に新たに福知山城主となった豊臣秀吉の正妻であるねねの伯父・杉原家次(すぎはらいえつぐ 1530-1584)の帰依により、眼光恵透が入山して寺を再々建。
山号を「医王山」と改めるとともに、一堂を建てて無事だった薬師如来を安置すると、諸堂伽藍が整備され、臨済宗南禅寺派の別格地となり現在に至っています。
境内には江戸時代に作られた大方丈(本堂)や薬師堂、開山堂、鐘楼などが現在も残り、加えて昭和期には方丈前庭として、昭和期を代表する作庭家の一人である重森三玲(しげもりみれい 1896-1975)の長男・重森完途(しげもりかんと 1923-92)による枯山水庭園「薬師三尊四十九燈の庭」が作庭され、水琴窟とともに楽しめます。
また境内には市立長安寺公園があり、市民の遊園の地として、また四季折々の景色が楽しめることでも知られていて、中でも秋は紅葉は実に美しく、樹齢600年の霊木「授乳のイチョウ」とのコラボレーションも見事で、「丹波のもみじ寺」と呼ばれ「福知山十景」にも選べるなど広く知られています。
行事としては、境内背後にある標高406mの姫髪山にて毎年8月16日に開催される「丹波大文字の送り火」が知られていて、1952年(昭和27年)から行われ福知山に夏の終わりを告げる風物詩として親しまれています。