京都府南丹市美山町樫原中野山、京都市北部の南丹市美山町を東西に流れる由良川水系・美山川の下流、町の西端に造られた由良川の治水と発電を主たる目的とする高さ61.4mの重力式コンクリートダムで、元々この地にあった旧大野村が名前の由来となっています。
「由良川」は京都府北部を流れる流路延長約140kmの府北部最大の河川で、京都府と滋賀県の県境の三国岳付近に水源を発し、京都大学芦生原生林を通過した後は南丹市を西に流れ、美山町の大野ダムを通過。
その後は船井郡京丹波町で高屋川を合わせてから北西に流路を変え、綾部市を貫流した後に福知山市内に入り、福知山城付近で土師川を合流してからは流れを北から北東へ向け、最後は宮津市と舞鶴市の市境で若狭湾に注ぐ川です。
美山町を流れる美山川はその由良川の上流にあたり、原始的河川の面影の残る透明度の高い清流として知られていて、その上流には天然のアマゴやカジカガエルが生息する豊かな自然が残され、観光拠点施設「自然文化村」では夏休みには都市と農村の子どもたちが一緒になって水遊びや鮎のつかみ取りなどを楽しむ光景が見られ、また川沿いには「日本のふるさとの原風景」といわれ、豊かな自然と茅葺き民家が調和するかやぶきの里があることでも知られています。
そして由良川の中流域および下流域はその地形的特徴から古くから洪水被害を何度となく経験してきた土地柄であり、これを少しでも軽減するために戦前よりダムによる洪水調整が着目され、また下流部に海軍の枢要な施設である舞鶴海軍工廠があったため、舞鶴港周辺の電力需要を満たす目的も併せた由良川河水統制事業が1943年(昭和18年)に計画されていましたが、第2次世界大戦の影響で中止を余儀なくされます。
しかし1945年(昭和20年)10月に再び由良川流域で集中豪雨が襲い、福知山市より下流で床上浸水の被害が多発したことから、1947年(昭和22年)には洪水調整計画が見直され、1951年(昭和26年)度から近畿地方建設局(現近畿地方整備局)由良川工事事務所に大野出張所が設置され、ダム建設の予備調査に着手をはじめます。
当初は住民の反対もあったものの、1953年(昭和28年)9月に台風13号による大洪水によって未曾有の大災害が発生したことから大野地区の人々も家屋等の移転にも理解を示し、1957年(昭和32年)11月より洪水調節を行うダムとしての建設工事が開始され、1961年(昭和36年)11月に京都府最初の多目的ダムとして完成。
昭和37年4月からは京都府が管理し、多目的ダムとして由良川下流域の洪水被害の軽減及び水力発電を行っています。今日に至るまで、降雨による出水に対し大野ダムにて多くの洪水調節が行われ、福知山市をはじめとした下流域の洪水被害の軽減に大きな効果を発揮しています。
このように由良川の治水と発電を主たる目的として建設されたダムですが、ダムによってできたダム湖である「虹の湖(にじのこ)」の畔には、建設時に地域振興などを願って2600本の桜やもみじが植栽され、更に1985年(昭和60年)には当時の美山町の町制30周年を記念して桜ともみじが約1000本植樹され、以後も順次整備されていて、現在では春の桜、夏の緑、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の美しい自然的景観を楽しむことができ、桜と紅葉の見頃の時期には「さくら祭り」や「もみじ祭り」などのイベントも開催され、地域住民のみならず多くの観光客も訪れる観光スポットにもなっています。
その他にも7つの色に彩色された7つの橋が虹の湖の上流域に架けられたほか、完成以降もダムの周辺には全長5.7kmの遊歩道が、そしてダムの下流には「大野ダム公園」として多目的広場やボート乗り場、パターゴルフ場やアウトドア施設なども整備され、春から秋にかけてはピクニックやブラックバス釣り、昆虫とりなどのアウトドア、冬には雪遊びを楽しむことができるなど、美山川の水辺環境が有効に活用されています。
更に大野ダムに関する資料が展示されている「ビジターセンター」や食事と喫茶ができる「レイクサイドハウス虹」なども隣接するほか、毎週土日には美山の新鮮野菜を販売する「大野青空市場」が開市されるなど、一大レジャースポットが形成されていることから、2005年(平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」にも選定されています。