京都府南丹市園部町竹井宮ノ谷、JR園部駅より西へ約7kmほど進んだ園部川の上流、南丹市園部町の最西端、胎金寺山の北の麓に北面して鎮座する神社。
社殿が北面するのは丹波地方では唯一といい、社格は延喜式における式内社(名神大社)で、旧社格は府社。
鎮座地である竹井集落を始め、篠山街道沿いに広がる周辺集落の共通の氏神として「摩気郷十一ヶ村の総鎮守」と称されていて、本殿に主祭神として「大御饌津彦命(おおみけつひこのみこと)」を祀るほか、本殿の左右には近郷各地から集められた神々を祀っています。
この点、主祭神・大御饌津彦命は奈良・春日大社の第三殿・天児屋根命(あまのこやねのみこと)と第四殿・比売神の御子神(若宮)である「天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)」の別称で、神話において瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大神の神勅によってこの国に降りた後、父神に「皇孫の御饌(みけ)の水には天津水を捧れ」と言われて天津国に遣わされて、一心に天津神に乞うて「天の八井の水」を受けたとされていて、水や食物を司る神として知られています。
そして「饌(け)」は「食」の古語であり「御饌=御食(みけ)」は神に捧げる食物を意味するといい、その御饌(みけ)が転訛して「摩気(まけ)」となったといわれています。
神社の詳しい創建の経緯については不明ですが、「吉祥山縁起」によると平安初期、第52代・嵯峨天皇の811年(弘仁2年)に空海による勧請とあるものの、「新抄格勅符抄」によれば第48代・称徳天皇の770年(神護景雲4年)に神封一戸を奉じられていることから、それを遡る奈良時代以前には存在していたと考えられています。
第55代・文徳天皇の852年(仁寿2年)11月には勅使を遣わされて幣帛を奉られ、また第56代・清和天皇の859年(貞観元年)正月には「従五位上」の神階を授けられており、更に平安中期の927年(延長5年)にまとめられた当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である「延喜式神明帳」では船井郡の「名神大社」として記されており、その当時から一帯の有力な神社であったと考えられます。
そして平安後期の1079年(承暦3年)には史上初めて院政を敷いたことで有名な第72代・白河天皇(しらかわてんのう 1053-1129)の行幸があり、社殿一円を修造の上「船井第一摩気神社」の勅額を賜ったと伝えられています。
また江戸期には当地を治めた園部藩主・小出氏の代々の祈願所とされ、1761年(宝暦11年)に当時神宮寺として隣に伽藍を構えていた胎金寺の出火によって焼失した際には第5代藩主・小出英持(こいでふさよし 1706-67)により本殿や摂社などが再建されています。
このため社殿は全て江戸時代以降のものですが、本殿と東摂社・西摂社の両摂社は伝統的な神社建築の流れを受け継ぐ遺構として京都府指定文化財、そして絵馬舎・神門・鳥居が京都府登録文化財にそれぞれ指定・登録されています。
また神社周辺の竹井集落にはのどかな田園風景や園部川に架かる趣のある摩気橋、白壁と瓦屋根が印象的な庄屋屋敷などの古き良き里山の風情が残っているほか、杉や松の深々とした緑に覆われた境内には茅葺きの建物が多く残っており、その景観の美しさから京都で撮影される時代劇のロケ地としても度々使用されているといい、1984年(昭和59年)には神社の森一帯が「京都府文化財環境保全地区」にも定められ保護が図られています。
ひっそりと落ち着いた雰囲気である一方、神社本来の凛とした神聖な空気も漂っていて、都会の喧騒を離れ時間を忘れてゆっくりと過ごしたいもおすすめの神社です。
行事としては6月に五穀豊穣と無病息災を祈願して行われる「お田植祭」や、10月には神輿渡御のほか、船阪御旅所にて行われる相撲や流鏑馬の神事が見どころである「神幸祭」などがよく知られています。