京都府綴喜郡井手町井手東垣内、京都府南部の井手町の上井手地区の東、玉川を挟んで南の山吹山と相対する井出山(大山)の中腹、地区からは急坂の参道を登った先の木々に覆われた場所に鎮座する神社で、井手町の産土神。
社伝によれば、540年(欽明天皇元年)8月に下照比売命(したてるひめのみこと)が玉津岡の南峰に降臨し、宮社を建てて祀ったのが「玉岡の社」であり、玉津岡神社のはじまりとされています。
また室町期1441年(嘉吉元年)の興福寺の文書には「椋本天神」の名で記されていて、欽明天皇元年に下照比売命が兎手玉津岡に降臨した後、奈良時代の731年(聖武天皇天平3年)9月に左大臣・橘諸兄によって下津磐根に遷座された後、1260年(文応元年)に現在地へ遷されたとされています。
その後、玉岡の社は後に「玉岡春日社」、江戸時代には「八王子社」と社号を変えた後、明治時代に入った1878年(明治11年)10月に八王子社、天兒屋根命を祀る西垣内の春日社、少彦名命を祀る宮の前の田中社、素盞嗚男命を祀る西前田の八坂社、味耜高彦根命を祀る玉の井の天神社の5社を八王子社殿(玉岡の社)に合祀すると、1879年(明治12年)12月には社号を「玉津岡神社」と改称し、更に1890年(明治23年)4月14日には菅原道真を祀る有王天満宮を合祀して現在に至っています。
現在の本殿は江戸前期の1687年(貞享4年)に再建されたもので、一間社春日造で建造され1984年(昭和58年)に京都府の登録文化財にも登録されているほか、境内の鎮守の森が同年「玉津岡神社文化財環境保全地区」として文化財環境保全地区に指定されています。
また本殿の右手にはその他にも玉川に縁の深い橘諸兄(たちばなのもろえ)および橘氏の末裔とされる楠木正成を祀る「橘神社」が祀られているほか、その先には小さな見世棚造りの末社がズラリと並び、順番に参拝できるようになっていて、更に二の鳥居からすぐそばには府の天然記念物・名木10選にも選定されているしだれ桜で有名な「地蔵禅院」があり、合わせて巡るのもおすすめです。
ちなみに主祭神である下照比売命(したてるひめのみこと)は日本神話において大国主命の娘で、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)の妹にあたる神様で、後に天稚彦(あめのわかひこ)の妻となります。
天稚彦は天照大神の命で高天原(たかまがはら)から葦原中国(あしはらのなかつくに)の征討に派遣された2番目の神ですが、下照比売命と結婚し8年間復命しなかったことから、その理由を問うために遣わされた使いの雉(キジ)に詰問され、かえってこれを射殺してしまいますが、その矢が高天原まで届くと更に投げ返され、それに当たって命を落としてしまいます。
下照比売命は亡くなった夫を喪屋(もや)を作って8日8夜歌舞して弔ったといい、このため家内和合や芸能のご利益で信仰を集めている神様です。
行事としては春と秋の例祭「春祭り」「秋祭り」のほか、6月の下旬に年明けから半年の間に溜まった罪穢れを祓い清め茅の輪くぐりをする「夏越の大祓」、8月31日にろうそくによる灯火で境内が幻想的な風景に包まれる「千燈祭」などが知られています。
中でも「春祭り」および「秋祭り」で奉納される「おかげ踊り」は、江戸時代に遷宮の翌年にお参りするとおかげ=ご利益が得られるとして約60年周期で大流行した伊勢神宮に集団で参詣する、いわゆる「おかげ参り」に由来する踊りで、全国でブームを巻き起こした後、明治以降は廃れてしまいましたが、昭和期になって各地で相次いで復活している伝統芸能です。
現在、南山城では江戸後期に流行し、大正や昭和の即位式の際には盛んに踊られたといわれているなど、おかげ踊りの盛んな地域の一つで、玉津岡神社では1980年(昭和55年)に復活し、春の4月3日と秋の10月半ばの例祭において、井手町民俗芸能保存会によって披露されていて、春祭りの際には玉津岡神社での奉納の前に桜並木が美しい玉川堤でも踊られるといいます。