京都市左京区静市市原町、叡山市原駅のやや南、鞍馬街道の篠峠にある天台宗延暦寺派の尼寺。
山号は如意山(にょいさん)、本尊は阿弥陀如来で、謡曲「通小町」で小野小町終焉の地と伝わり「小町寺(こまちでら)」の通称で知られているお寺です。
小野小町(おののこまち 生没年不詳)は平安前期を代表する女流歌人で、紀貫之の選んだ「六歌仙」や藤原公任が選んだ「三十六歌仙」の一人に数えられている人物。
出自や経歴などについては諸説あり、出羽郡司・小野良真の娘で小野篁(たかむら)の孫などと伝えられていますが、真偽のほどは明らかでなく、小野氏出身という他は確かなことは分かっていません。
この点、歌は18首が入集している「古今集」のほか、「後撰和歌集」などの勅撰集に64首が収録され、その中には文屋康秀(ふんやのやすひで)や凡河内躬恒、在原業平(ありわらのなりひら)、安倍清行(あべのきよゆき)、小野貞樹、僧正遍昭らとの贈答歌が見られますが、これらの歌の贈答が彼女の事跡を知る根本資料となっており、それによれば承和~貞観中頃(834~68頃)に仁明(にんみょう)・文徳(もんとく)両天皇の後宮に仕えたと推測され、和歌の宮廷文学としての復興に貢献したと考えられています。
また平安女流文学の先駆者、原点ともいえる存在であり、恋愛歌に秀作が多く、女性の立場から情熱的に詠んだ恋の歌に大いに特徴が見られます。
そして代表的な歌としては「古今集」に収録され、「小倉百人一首」の9番にも選ばれている
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに」
小野小町は在原業平(ありわらのなりひら)に思いを寄せていたといいますが、業平はそのことに気づかず、和歌はそのことを嘆いて作ったといわれ、諦念のこもった恋心を花を喩えに巧みに表現しています。
家集には「三十六人集」の一つ「小町集」がありますが、後人の擬作と考えられ確実に小野小町の歌といえるものは少ないといいます。
そして小野小町といえば歌才はもちろんのこと、現代においても美人の代表としてその名を知られているように絶世の美女であったといい、小町誕生の井戸や小町塚など多くの伝説が全国に残っており、歌舞伎や「小町物」と呼ばれる謡曲、浄瑠璃、御伽草子などの題材にもなっています。
「補陀洛寺」は平安中期の959年(天徳3年)(945年とも)、第15代天台座主・延昌の発願により、清原深養父(きよはらのふかやぶ)が静原の地にあった山荘を寺にしたのがはじまりとされています。
同名の寺は鎌倉にもありますが、寺号の「補陀洛寺」は南方の補陀洛浄土に基づくものと思われ、その名の通り元々は本尊に千手観音を要する補陀洛信仰の観音霊場として知られていました。
その後中世に廃寺となりますが、近世に入って静原より南方の市原の現在地に名刹を継いで再建されました。
この点、寺地は江戸時代に鞍馬街道に拓かれた「篠原の切り通し」といわれる断崖の篠坂峠に位置しており、一帯には他にも静林寺、恵光寺、大念寺など多くの寺が集まり、葬送地が形成されている場所です。
現在の本堂は、1999年(平成11年)に再建されたもので、元々あった千手観音が平安時代の終わりに奥州平泉の毛越寺の方に移されているため、現在の本尊は平安時代作の半丈六の阿弥陀三尊像(阿弥陀如来と脇侍の観音・勢至菩薩)となっています。
そして比叡山の唱導の原作を元に後に観阿弥、世阿弥が大成させた謡曲「通小町(かよいこまち)」にて市原が小野小町終焉の地とされていることや、当寺に祀られている小町像に基づき、現在は「小町寺(こまちでら)」の名前で知られるようになっています。
「小野とはいわじ、薄(すすき)生ひたる市原野辺に住む姥ぞ」と謡われる「通小町」では、晩年の小町は遠く陸奥路まで漂泊の旅を続けた後、昔父が住んでいた懐かしさから市原の荒れ果てた生家を訪れますが、900年(昌泰3年)頃、この地にて朽木の倒れるように亡くなったとされ、小町の遺体は弔う人もいなく、風雨に晒されて髑髏化していったといい、小町の髑髏からは生い育った一本のススキが風に震えていたといいます。
境内にはこの伝説にちなんだ「穴目のススキ」のほか、少将の通魂塚や本堂の本尊横に安置されている小野小町老衰像、小町灯篭、小町と百夜通いしたという深草少将の供養塔、姿見の井戸(小町化粧水)など多くの遺跡が残されています。