京都市左京区静市市原町にある浄土宗西山禅林寺派の寺院で紅葉で有名な永観堂の末寺。
山号は森豊山(しんぽうざん)で、本尊は阿弥陀如来。
寺伝によると平安京遷都直前の793年(延暦12年)に第50代・桓武天皇の勅願を受け賢憬が現在の中京区西ノ京勧学院町の付近に法相宗の寺として創建したのがはじまり。
それからほどなくして藤原冬嗣(775-826)に与えられると、821年(弘仁12年)に藤原氏出身の大学寮学生のための寄宿舎として勧学院(かんがくいん)が創建され、以後は藤原氏の学問寺として栄えますが、勧学院は貴族社会の衰微とともに鎌倉時代には消滅したといわれています。
その後、後醍醐天皇の時代の1320年(元応2年)に藤原藤房によって再建され、この時に「更雀寺」の寺号と勅額を賜っていて、「応仁の乱」の兵火などもあっていったんは荒廃しますが、文禄・慶長年間(1592-1614)頃に僧・浄春が再興して浄土宗に改めます。
そして江戸初期の1626年(寛永3年)に森豊後守が幕府の要請により替地を貰って寺域を四条大宮の地に移転し「森豊山」と号し、現代に入り四条大宮のターミナル化に伴って1977年(昭和52年)に市原の地に移転し現在に至っています。
「本堂」は1977年(昭和52年)の移転時の建立で、本尊・阿弥陀如来像を安置。
そして「地蔵堂」に安置する地蔵菩薩像は、かつて当寺が四条大宮の近くにあった時のこと、寺の近くに住んでいた白拍子の娘・照子は生まれつき左手の指が3本しかなく、来世に障害のない人間に生まれることを祈願して壬生の尼ヶ池の水を閼伽水として地蔵に毎日供えていたといい、このことから「桶取地蔵」と呼ばれるようになり、「洛陽四十八願所地蔵めぐり」の第3番札所として信仰を集めているほか、壬生寺で催される「大念仏狂言」の演目の一つ「桶取」にも登場することでも知られています。
また境内にある五輪石塔は「雀塚」と呼ばれ、平安中期の貴族で左近衛中将・藤原実方(ふじわらのさねかた ?-999)の霊を祀ったものといわれています。
藤原実方は平安中期の貴族で「中古三十六歌仙」の一人にも数えられ、「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」と詠んだ歌が「小倉百人一首」にも歌が収められているほどの有名な歌人でもある一方、清少納言と恋歌のやりとりをし、他の複数の女性との交際も噂されるなど、「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人とも言われるなど、才色兼備の人物であったといわれています。
一方で激しい性格であったことで知られ、995年(長徳元年)の正月のこと、実方は同僚で書の三蹟の一人として知られる藤原行成と一条天皇の御前で和歌について口論となり、怒った実方が手に持っていた笏(しゃく)で行成の冠を払い落とすという事件が発生。
これに対し行成は取り乱すことなく役人に冠を拾わせて事を収めますが、この一件が一条天皇の怒りを買い、「歌枕を見てこい」と言われ実方は奥州へ左遷されることとなります。
そして実方はその後、陸奥の地で都への思いを募らせつつも、999年(長徳2年)に落馬が原因で命を落とし、都へと戻ることはありませんでした。
一方、実方が亡くなったという知らせが京都へ伝わったちょうどその時、都の清涼殿に一羽の雀が舞い降りては、台盤所の飯をついばむという出来事が起きるようになり、その話を聞いた人々は京都へ帰りたかったとされる実方の一念が雀と化した、あるいは実方の霊が雀に取り憑いたと噂し合ったともいい、「実方雀」あるいは内裏に侵入する雀であることから「入内雀(にゅうないすずめ)」と呼んで恐れたといいます。
そして同じ頃に藤原氏の私学校でもある勧学院でも事件が起こります。勧学院の住職であった観智上人の夢枕に一匹の雀が現れ、自分は雀となって都に戻ってきた実方で、どうか私のために経を上げて欲しいと告げたといいます。
翌朝上人は境内で息絶えている雀を発見することとなり、上人はこれが実方の変わり果てた姿であると考え、勧学院に「雀塚」を建てて、実方の霊を弔ったといわれていて、それ以来「雀寺(すずめでら)」の通称で呼ばれるようになったといいます。
その後、勧学院は更雀寺と名を改め、寺地も現在は市原の地に移転されていますが、雀塚は新しい境内地に現存して供養が続けられており、また苔むした石塔の周りには、陶芸に携わる檀家によって納められたという焼き物の雀が十数羽境内で遊ぶように置かれていて、実方の伝承を偲ばせます。