岩倉門跡と呼ばれた「床もみじ」で有名な紅葉の名所
元天台宗寺門派の単立寺院。1229年不動明王を本尊に紫野に開創、御所近くを経て応仁の乱の際岩倉へ。江戸初期に室町15代足利義昭の孫義尊が入寺し再建、後に門跡寺院に。
本堂・四脚門・御車寄は大宮御所より下賜。山水庭園と石庭の2つの庭を中心に紅葉の名所で板の間に映る「床もみじ」で有名
実相院のみどころ (Point in Check)
京都市左京区岩倉上蔵町、京都市北東の岩倉にある天台宗寺院で、代々の住職を皇室ゆかりの人物が務めるいわゆる門跡寺院の一つ。
元々は天台宗寺門派の門跡寺院でしたが、現在は単立寺院で、山号は岩倉山、本尊は鎌倉期作の木造不動明王像。
鎌倉時代の1229年(寛喜元年)、大納言・鷹司兼基(たかつかさかねもと 1185-?)の子・静基(じょうき)が円珍を開祖として紫野(京都市北区)に開創したのがはじまり。
後に現在の京都御所にほど近い今出川小川(五辻通小川)(現在の上京区実相院町)に移転され、更に「応仁・文明の乱(1467-1477)」による難を逃れるため岩倉へと移転されます。
後に兵乱により焼失し衰微しますが、江戸初期の寛永年間(1654-1663)に室町15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき 1537-97)の孫にあたる義尊(ぎそん ?-1661)が入寺すると、母の古市胤子(ふるいちたねこ 1583-1658)(法誓院三位局)が第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう 1571-1617)の後宮となった関係もあって皇室より寵愛を受け、皇室や江戸3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ 1604-51)などからも援助を受けて再建されます。
その後、第111代・後西天皇(ごさいてんのう 1638-85)の皇子・義延入道親王(ぎえんほうしんのう 1662-1706)が入寺し、以後は「岩倉門跡」として山門派に対し天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の随一とされ、皇室の援助などもあり栄えたましたが、明治維新とともに衰退、戦後の1952年(昭和27年)に園城寺天台寺門宗より独立し単立寺院となり現在に至っています。
「客殿(本堂)」「四脚門」「御車寄」は、第113代・東山天皇(ひがしやまてんのう 1675-1710)の中宮だった承秋門院(じょうしゅうもんいん 1680-1720)の旧殿「大宮御所(女院御所)」より下賜されたものを移築したとされ、御所の遺構建築。
その他にも後水尾天皇宸翰「忍」の掛け軸や後陽成天皇宸翰の紙本墨書「仮名文字遣(重文)」のほか、多数の古記録・文書などを所蔵するほか、玄関横の狩野探幽の名画「唐獅子」など、狩野派の画家たちが描いた襖絵や障壁画も多数収蔵しているといいます。
また山水庭園と石庭の2つの庭園があり、これらの庭を中心に紅葉の名所として有名で、とりわけ板の間に映る「床もみじ」で知られています。