京都市左京区岩倉上蔵町、京都市北東の岩倉の地、床もみじで有名な「実相院」の北隣に鎮座し、「岩倉」の地名の由来ともなった神社。
祭神は
東社が石座、新羅、八幡、山王、春日、住吉、松尾、賀茂の八所明神、
西社が八所明神に伊勢、平野、貴船、稲荷を加えた十二所明神
創建については明らかではありませんが、平安期の歴史書「日本三代実録」に「元慶四年十月十三日癸巳、山城国正六位上石坐神、授従五位下」との記録、すなわち平安前期の880年(元慶4年)にそれまで正六位だった石座神に従五位下を授けたと記されていることから、それ以前の創建と考えられています。
当時の鎮座地は、現在地より岩倉川を1㎞ほど下った岩倉西河原町、現在は石座神社の御旅所となっている「山住神社(やまずみじんじゃ)」の位置にあったといいます。
この点、山住神社は社殿を持たず、御神体の磐座を崇める古神道の形を現在に伝える神社で、794年(延暦13年)の平安遷都の際に、都の東西南北に磐座が設けられ、青龍、白虎、朱雀、玄武の4神を祀り王城鎮護を祈願したとされていますが、山住神社はこのうちの北岩倉にあたり、現在の岩倉という地名もこの山住神社の磐座に由来していると考えられています。
その後平安中期の971年(天禄2年)に円融上皇の廟として山住神社のやや北、現在の石座神社の地に「大雲寺」が創建されると、その造営に伴って大雲寺の境内に鎮守神として石座明神が勧請されます。
更に997年(長徳3年)4月18日には神殿が新築され、石座明神と共に新羅・八幡・山王・春日・住吉・松尾・賀茂の七明神が勧請・合祀され「八所明神」と称し、旧来の石座明神社は、八所明神社の御旅所となりました。
後に西社が建造され、東社の八所明神に加えて伊勢・平野・貴船・稲荷の四明神が祀られて「十二所明神」と称するようになり、以降も岩倉の産土神として尊崇を集め現在に至っています。
その後、室町中期の1547年(天文15年)に兵火で社殿が焼失し、安土桃山時代の1592年(天正20年)に再建された後、江戸中期の1766年(明和3年)に改造営されています。
この時作り変えられた社殿は現存しており、京都市の登録文化財に指定されています。
社名は元々は「八所・十二所明神社」と称していましたが、明治以降に現社名の「石座神社」に改称され、御旅所は「山住神社」と呼ばれるようになっています。
そして1878年(明治11年)にはそれまで北北東150mの正水山(しょうずやま)にあった一言主社(ひとことぬし)が摂社として石座神社境内に遷されています。
また幕末の一時期、暗殺を恐れて岩倉に潜んでいた岩倉具視(いわくらともみ)が足しげく参詣したことでも知られていて、境内には岩倉家が寄進した石燈篭もあります。
行事としては毎年10月23日に近い土曜日の未明に開催される「石座の火祭り」が「岩倉火祭」として京都市登録無形文化財にも指定されていて有名。
旧岩倉村の6つの町内で朝神事と昼神事に分かれて行われ、朝神事では大蛇退治の故事に由来する2本の巨大な松明を燃やし、燃え尽きる明け方に神輿を出して、実相院や氏子地域を練り歩き御旅所となっている山住神社に向かいます。
一方の昼神事では14時に行列が御旅所を出発して石座神社へと帰還し、16時頃に神事が行われた後、拝殿前にて8人の踊り子による岩倉踊が奉納されます。