京都市左京区岩倉上蔵町、叡山鞍馬線の岩倉駅から北へ約1km、紅葉の名所として有名な実相院や岩倉の火祭で有名な石座神社の近くにある、幕末から明治初期にかけて活躍した公家で政治家の岩倉具視の邸宅跡。
この点、岩倉具視(いわくらともみ 1825-83)は、王政復古に力を注ぎ明治維新に功績のあった明治維新の十傑の一人で、1982年(昭和57年)に500円玉が発行されるまで使用されていた500円札の肖像画にもなったことのある人物です。
1825年(文政8年)に参議正三位・堀河康親(ほりかわやすちか 1797-1859)の次男として京都に生まれた後、1838年(天保9年)に13歳で公卿・岩倉具慶(いわくらともやす 1807-73)の養子となり岩倉家へと入ります。
そして1854年(安政元年)には第121代・孝明天皇(こうめいてんのう 1831-67)の侍従となると、次第に朝廷内において台頭し、1858年(安政5年)に日米修好通商条約の締結に反対派の公家を結集して抗議行動を起こし、朝廷内で一躍注目される存在に。
幕末の騒乱に際しては朝廷と幕府の関係改善に努め、公武合体を進めるため、孝明天皇の妹・和宮の将軍家への降嫁、14代将軍・徳川家茂との婚姻に尽力しましたが、攘夷運動の高まりの中でこのことから佐幕派の巨頭とみなされ、尊王攘夷派の志士から命を狙われることとなり、1862年(文久2年)9月に官職を辞し、西賀茂の霊源寺で剃髪して洛中から退去。
一時は霊源寺や西芳寺へと身を潜めますが、更なる尊皇攘夷派の志士達の追跡を受けて、11代前から縁があったという洛中から遠く離れた洛北・岩倉村へと移り隠棲しました。
「終日掃除ノ処古家ニシテ実ニ住居ナシ難シ、兎ニ角落涙ノ外ナシ」と当時の窮状を涙ながらに日記に記しながらも、復帰を願って政府に対して意見書を書き続け、旧宅には大久保利通(としみち)や中岡慎太郎、坂本龍馬(りょうま)など明治維新の志士たちが訪問し、王政復古に向けた密議を行ったといい、とりわけ薩摩藩とは親密な関係となり、公武合体派から倒幕派へと立場を変更することとなります。
1867年(慶応3年)11月、5年間の蟄居生活の後、洛中に戻ることが許されると、以降は維新倒幕運動の中心となって活躍。
同年の徳川幕府による政権の朝廷への返上、いわゆる「大政奉還」の後も政治的権力を手放そうとしない第15代将軍・徳川慶喜に対して、12月9日に「王政復古の大号令」を宣言して政治的クーデターに成功。
直後に新政府軍と旧幕府軍との間で起きた「鳥羽伏見の戦い」においては、天皇の軍隊であることを示すいわゆる「錦の御旗」を密かに製造して旧幕府軍の戦意を喪失させ、新政府軍の勝利に大いに貢献しました。
そして明治政府が樹立されると、新政府においては参与、議定、大納言、右大臣などを歴任しその中核として活躍し、版籍奉還や廃藩置県などの重要法案の立案に携わるとともに、1871年(明治4年)には特命全権大使として「岩倉使節団」を率いて欧米各国の視察にも出向いています。
「岩倉具視幽棲旧宅」は洛中から追放された岩倉が1864年(元治元年)から1867年(慶応3年)までの3年間、住居として隠れ棲んだ建物で、旧宅内の脇床には当時の襖絵が残るなど具視幽棲時の旧態を偲ぶことができる遺構として1932年(昭和7年)3月に史蹟名勝天然紀念物保存法のもとで国の「史跡」に指定。
岩倉の住んでいた旧宅「鄰雲軒(りんうんけん)」は周囲は塀で囲まれた敷地内の西北に位置し、平屋建茅葺の「主屋」と瓦葺の「付属屋」の2棟で構成。
1864年(元治元年)に大工の藤吉の居宅であったという現在の附属屋にあたる部分を購入し、茅葺の主屋と繋屋を増築して住居としたといいます。
また旧宅の東側にある「対岳文庫」は、1928年(昭和3年)の補修の際に岩倉具視の遺品類や明治維新関係文書などを展示・収蔵する施設として建てられた西洋風の鉄筋コンクリート平屋建ての建物で、「対岳」とは岩倉具視の雅号で、比叡山と対峙する岩倉村に住んでいるという意味からそのように称していたという名前です。
設計は京都市役所の本館も手掛けた建築家・武田五一で、建物は2007年(平成19年)に国の登録有形文化財に登録されているほか、文庫収蔵の岩倉具視関連資料についても1011点が重要文化財に指定されています。
そして旧宅の前にある「南庭」は、岩倉が自ら植えたと伝わる「御手植えの松」を中心としたもので、1928年(昭和3年)の補修の際に現在の姿となり、それ以前の様子は明らかでなく、長らく誰の手による庭かも不明でしたが、2008年(平成20年)の修繕の際に主屋の屋根裏から棟札が発見され、七代目小川治兵衛(植治)の手になることが判明。その他にも庭前には岩倉具視の「遺髪塚」とお手植の松も植えられています。
この点、岩倉が洛中へと戻った後もこの邸宅は岩倉公旧蹟保存会によって長年にわたって保存・維持され続けてきましたが、2008年(平成20年)から4年をかけ京都市が国庫補助を得て本格的な修理を行った後、2013年(平成25年)に岩倉公旧蹟保存会の解散に伴って京都市が寄付を受け、更に2016年(平成28年)からは指定管理者制度の導入によって植彌加藤造園が管理者として指定され、施設の維持管理・公開業務を行っています。
また鄰雲軒や対岳文庫では、施設の観覧以外にも崩し字講座などの各種講座や、幕末歴史散歩など、日本文化の深みを味わえるイベントを逐次開催しているほか、カフェの営業も通年で行っています。