岩倉具視幽棲旧宅

岩倉具視幽棲旧宅

旧500円札肖像画、維新の十傑・岩倉具視ゆかりの家

幕末に皇女和宮降嫁で公武合体を進めたことで攘夷攘夷派の弾劾を受け失脚した岩倉具視が5年間隠れ住んだ旧宅。 この地で討幕・王政復古の計画を練り倒幕派の中心として活躍、維新後は右大臣として木戸孝允や大久保利通とともに明治政府の中枢を担った。 対岳文庫には重文指定の関連資料1011点を保存

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岩倉具視幽棲旧宅とは?(基本データ)

名前
岩倉具視幽棲旧宅(いわくらともみゆうせいきゅうたく)
エリア
岩倉・宝ヶ池
ジャンル

邸宅・屋敷・別荘 史跡

建立・設立
1862年(文久2年)9月、岩倉具視が皇女和宮の降嫁による公武合体を進めたことで攘夷攘夷派の弾劾を受け失脚、1867年(慶応3年)11月までの約5年余り岩倉村に幽居し討幕・王政復古の計画を練る
1864年(文久4年)、大工藤吉の居宅を購入し主屋と繋屋を増築して住居とする
1928年(昭和3年)、岩倉具視関係品の展示・収蔵施設として対岳文庫を建設(京都市庁舎本館を設計した京都帝国大学教授の建築家・武田五一による)
1932年(昭和7年)3月25日、国の史跡に指定
2007年(平成19年)、建物が国の有形文化財に登録
2013年(平成25年)、財団法人岩倉公旧蹟保存会が解散し旧宅は京都市へ寄贈(6月1日より公開再開)
指定管理者
植彌加藤造園株式会社
アクセス
  • 叡山電鉄鞍馬線「岩倉」駅下車 北へ徒歩約20分(約1.4km)
  • 京都バス「岩倉実相院」(21・24系統)下車 南へ徒歩約3分
  • 京都市営地下鉄烏丸線「国際会館」駅より車・タクシーで5~10分
駐車場
専用駐車場約10台(無料)
拝観料
一般 400円
中高生および高等専門学校生 200円
小学生 100円
お休み
水曜日(祝日の場合は開館、翌平日休館)
年末年始(12/29~1/3)
拝観時間
9:00~17:00(入場は16:30まで)
住所
〒606-0017
京都府京都市左京区岩倉上蔵町100
電話
075-781-7984(岩倉具視幽棲旧宅管理事務所)
FAX
075-781-7984(岩倉具視幽棲旧宅管理事務所)
公式サイト
岩倉具視幽棲旧宅 王政復古は、ここから始まった
岩倉具視幽棲旧宅 【公式】 Twitter
国指定史跡 岩倉具視幽棲旧宅 Facebook
岩倉具視幽棲旧宅【公式】 Instagram
岩倉具視幽棲旧宅 文化遺産オンライン
国指定史跡岩倉具視幽棲旧宅の一般公開開始について 京都市情報館
岩倉具視幽棲旧宅 庭園紹介 植彌加藤造園
口コミ
岩倉具視幽棲旧宅 食べログ

岩倉具視幽棲旧宅の地図

岩倉具視幽棲旧宅のみどころ (Point in Check)

京都市左京区岩倉上蔵町、叡山鞍馬線の岩倉駅から北へ約1km、紅葉の名所として有名な実相院や岩倉の火祭で有名な石座神社の近くにある、幕末から明治初期にかけて活躍した公家で政治家の岩倉具視の邸宅跡。

この点、岩倉具視(いわくらともみ 1825-83)は、王政復古に力を注ぎ明治維新に功績のあった明治維新の十傑の一人で、1982年(昭和57年)に500円玉が発行されるまで使用されていた500円札の肖像画にもなったことのある人物です。

1825年(文政8年)に参議正三位・堀河康親(ほりかわやすちか 1797-1859)の次男として京都に生まれた後、1838年(天保9年)に13歳で公卿・岩倉具慶(いわくらともやす 1807-73)の養子となり岩倉家へと入ります。

そして1854年(安政元年)には第121代・孝明天皇(こうめいてんのう 1831-67)の侍従となると、次第に朝廷内において台頭し、1858年(安政5年)に日米修好通商条約の締結に反対派の公家を結集して抗議行動を起こし、朝廷内で一躍注目される存在に。

幕末の騒乱に際しては朝廷と幕府の関係改善に努め、公武合体を進めるため、孝明天皇の妹・和宮の将軍家への降嫁、14代将軍・徳川家茂との婚姻に尽力しましたが、攘夷運動の高まりの中でこのことから佐幕派の巨頭とみなされ、尊王攘夷派の志士から命を狙われることとなり、1862年(文久2年)9月に官職を辞し、西賀茂の霊源寺で剃髪して洛中から退去。

一時は霊源寺や西芳寺へと身を潜めますが、更なる尊皇攘夷派の志士達の追跡を受けて、11代前から縁があったという洛中から遠く離れた洛北・岩倉村へと移り隠棲しました。

「終日掃除ノ処古家ニシテ実ニ住居ナシ難シ、兎ニ角落涙ノ外ナシ」と当時の窮状を涙ながらに日記に記しながらも、復帰を願って政府に対して意見書を書き続け、旧宅には大久保利通(としみち)や中岡慎太郎、坂本龍馬(りょうま)など明治維新の志士たちが訪問し、王政復古に向けた密議を行ったといい、とりわけ薩摩藩とは親密な関係となり、公武合体派から倒幕派へと立場を変更することとなります。

1867年(慶応3年)11月、5年間の蟄居生活の後、洛中に戻ることが許されると、以降は維新倒幕運動の中心となって活躍。
同年の徳川幕府による政権の朝廷への返上、いわゆる「大政奉還」の後も政治的権力を手放そうとしない第15代将軍・徳川慶喜に対して、12月9日に「王政復古の大号令」を宣言して政治的クーデターに成功。

直後に新政府軍と旧幕府軍との間で起きた「鳥羽伏見の戦い」においては、天皇の軍隊であることを示すいわゆる「錦の御旗」を密かに製造して旧幕府軍の戦意を喪失させ、新政府軍の勝利に大いに貢献しました。

そして明治政府が樹立されると、新政府においては参与、議定、大納言、右大臣などを歴任しその中核として活躍し、版籍奉還や廃藩置県などの重要法案の立案に携わるとともに、1871年(明治4年)には特命全権大使として「岩倉使節団」を率いて欧米各国の視察にも出向いています。

「岩倉具視幽棲旧宅」は洛中から追放された岩倉が1864年(元治元年)から1867年(慶応3年)までの3年間、住居として隠れ棲んだ建物で、旧宅内の脇床には当時の襖絵が残るなど具視幽棲時の旧態を偲ぶことができる遺構として1932年(昭和7年)3月に史蹟名勝天然紀念物保存法のもとで国の「史跡」に指定。

岩倉の住んでいた旧宅「鄰雲軒(りんうんけん)」は周囲は塀で囲まれた敷地内の西北に位置し、平屋建茅葺の「主屋」と瓦葺の「付属屋」の2棟で構成。
1864年(元治元年)に大工の藤吉の居宅であったという現在の附属屋にあたる部分を購入し、茅葺の主屋と繋屋を増築して住居としたといいます。

また旧宅の東側にある「対岳文庫」は、1928年(昭和3年)の補修の際に岩倉具視の遺品類や明治維新関係文書などを展示・収蔵する施設として建てられた西洋風の鉄筋コンクリート平屋建ての建物で、「対岳」とは岩倉具視の雅号で、比叡山と対峙する岩倉村に住んでいるという意味からそのように称していたという名前です。

設計は京都市役所の本館も手掛けた建築家・武田五一で、建物は2007年(平成19年)に国の登録有形文化財に登録されているほか、文庫収蔵の岩倉具視関連資料についても1011点が重要文化財に指定されています。

そして旧宅の前にある「南庭」は、岩倉が自ら植えたと伝わる「御手植えの松」を中心としたもので、1928年(昭和3年)の補修の際に現在の姿となり、それ以前の様子は明らかでなく、長らく誰の手による庭かも不明でしたが、2008年(平成20年)の修繕の際に主屋の屋根裏から棟札が発見され、七代目小川治兵衛(植治)の手になることが判明。その他にも庭前には岩倉具視の「遺髪塚」とお手植の松も植えられています。

この点、岩倉が洛中へと戻った後もこの邸宅は岩倉公旧蹟保存会によって長年にわたって保存・維持され続けてきましたが、2008年(平成20年)から4年をかけ京都市が国庫補助を得て本格的な修理を行った後、2013年(平成25年)に岩倉公旧蹟保存会の解散に伴って京都市が寄付を受け、更に2016年(平成28年)からは指定管理者制度の導入によって植彌加藤造園が管理者として指定され、施設の維持管理・公開業務を行っています。

また鄰雲軒や対岳文庫では、施設の観覧以外にも崩し字講座などの各種講座や、幕末歴史散歩など、日本文化の深みを味わえるイベントを逐次開催しているほか、カフェの営業も通年で行っています。

岩倉具視幽棲旧宅の施設案内

 

邸内

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    表門

     

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    「史蹟 岩倉具視幽棲舊宅」の石標

     

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    南土塀

     

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    通用門

     

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    駒札

     

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    管理事務所

     

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    受付

     

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    事務所休憩室と対岳文庫前の縁台

    約30人が休憩できる休憩スペース

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    分岐

     

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    対岳文庫

    岩倉具視の遺品類や明治維新関係文書などを展示・収蔵するために1928年(昭和3年)に建設された鉄筋コンクリート平屋建ての小規模な建物
    2007年(平成19年)に国の登録有形文化財に登録
    京都市庁舎本館も手掛けた京都帝国大学教授で建築家の武田五一の設計

    岩倉具視関係品を展示しているが、国指定重要文化財の「岩倉具視関係資料」1018点および京都市指定有形文化財「岩倉具視関係資料」109点については現在は京都市歴史資料館に収蔵
    幕末維新の歴史に関する書籍のほか、近隣地域の歴史・文化に関する書籍、近隣の観光情報誌や幕末・維新の史跡についてのガイドブック、岩倉具視幽棲旧宅が掲載された書籍などは文庫内にある「岩倉文庫」にて閲覧が可能

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    句碑

    昭和・平成期の俳人・丸山海道(まるやまかいどう)・佳子(よしこ)夫妻による句碑

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    主屋(鄰雲軒)

    周囲は塀で囲まれた敷地内の西北に位置し、平屋建茅葺の「主屋」と瓦葺の「付属屋」の2棟で構成
    1864年(元治元年)に大工の藤吉の居宅であったという現在の附属屋にあたる部分を購入し、茅葺の主屋と繋屋を増築して住居としたという
    茅葺の質素な外観の主屋(玄関座敷)は約60平方メートル、瓦葺の付属屋(居間勝手等)は約74平方メートルで「繋屋」で連絡されている

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    遺髪碑

    主屋の東側に建てられた岩倉具視の遺髪を収めた慰霊碑で、槇子夫人の碑と共に祭られている
    岩倉具視は明治維新の後は明治天皇や皇室関係者、政治家とともに東京に移住したが、岩倉の村民たちの懇願に対し、岩倉具視の亡くなった後に遺髪が送られたという

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    岩倉具視顕彰碑

    碑は2つあり、一つは岩倉具視のブレーンとして活躍し教育勅語を起草した井上毅、もう一つは大久保利通の子・大久保利武によるもの

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    主屋南庭

     

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    岩倉具視お手植えの松

     

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    中庭

    主屋、繋屋、附属屋の間

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    中門

     

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    式台(玄関)

     

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    次の間

     

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    繋屋

     

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    附属屋

     

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    離れの便所

     

周辺

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    叡山岩倉駅

     

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    府道106号

     

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    目無橋

     

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    岩倉川

     

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    「左岩倉公幽棲地」の文字が刻まれた道標

     

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    岩倉児童公園

     

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    岩倉実相院バス停

     

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    実相院

     

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    石座神社

     

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    石座神社駐車場

     

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    大雲寺

     

岩倉具視幽棲旧宅の主な年間行事・カレンダー

年中行事

7/20

岩倉具視遺髪碑慰霊祭

岩倉家の現当主などが集まり岩倉具視の命日に行われる慰霊祭

月並行事

毎月第4土曜

岩倉具視の古文書を読む講座

全10回(4~3月で8月・12月を除く)

花ごよみ

 

紅葉(こうよう)

 

岩倉具視幽棲旧宅の口コミ

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