京都府京都市左京区松ヶ崎堀町にある日蓮宗の寺院で、山号は松崎山。
1918年(大正7年)5月14日、松ヶ崎集落にあった同じ日蓮宗寺院の「妙泉寺」と「本涌寺(ほんにゅうじ)」とが合体し、両者の寺名をとって「涌泉寺」と改名し成立した寺院です。
「妙泉寺」は、平安初期の延暦年間(782-806)に黄門侍郎牒利(こうもんじろうのりとし)よって天台宗比叡山の三千坊の一つとして建立されたとも、また平安中期の992年(正暦3年)に源保光により天台宗の松崎寺(円明寺)として創建されたともいわれています。
その後、鎌倉時代の1294年(永仁2年)5月に日像が京都に日蓮宗を広めた際、当時の住職である実眼が日像に帰依しその門弟となり、更に1306年(徳治元年)には日像の説法によって村民すべてが熱心に信仰するようになり村を挙げて日蓮宗に改宗。
この時寺の後にあった「日輪の滝」「月輪の滝」にちなんで寺名を「妙泉寺」と改めました。
一方の「本涌寺」は1574年(天正2年)2月に妙泉寺・日生により法華一門の学問所として開檀された「松ヶ崎檀林」の後身にあたる寺院です。
松ヶ崎檀林は日蓮宗門最古の学校として明治初期まで続きますが、1872年(明治5年)の学制発布により松ヶ崎檀林は廃檀となり、その後「本涌寺」と改称されます。
現在も山門傍らに残る「法華宗根本学室」と刻まれた石碑が往時を偲ばせますが、ちなみに「涌泉寺」となった現在も教育機関として境内に尼宗学林があり、尼僧の教育を行うほか、保育園も経営されています。
そして1876年(明治9年)、松ヶ崎小学校の設置のため寺域を割譲され、更に1918年(大正7年)には松ヶ崎小学校の拡張のため、本涌寺と妙泉寺が合併し「涌泉寺」と改めらることに。
この時に妙泉寺の寺地は松ヶ崎小学校の校地となり、涌泉寺は庫裡が隣村の縁寺に移されて講堂が一つ残され荒廃した状態だったかつての本涌寺の寺地に移転し現在に至っています。
現在の本堂は1654年(承応3年)に女院御所造営の残木を拝領して建立されたという檀林の講堂だった建物で、日蓮宗檀林の講堂の遺構としては全国的に見ても最古にして唯一のものと考えられます。
妙泉寺を中心とした松ヶ崎集落は日像が日蓮宗を初めて京都に広めた際、洛西の鶏冠井集落とともにいち早く教化された集落の一つで、住民たちが一村あげて皆法華という信仰現象を形成したことで知られています。
そして現在は江戸時代に始まる「五山の送り火」のうち「妙法」の文字を灯す寺院として知られていて、毎年8月16日にはこの松ヶ崎集落の住民によりの精霊会の送り火に「妙法」の二文字が松ヶ崎の西山(万灯籠山)と東山(大黒天山)に灯されます。
この点、送り火の起源については正確な年代は不明ですが、江戸初期の1662年(寛文2年)に刊行された「案内者」に「山々の送り火、但し雨ふればのぶるなり…松ヶ崎には妙法の2字を火にともす」との記述があり、それ以前にはじまったことははっきりしています。
他方、湧泉寺の寺伝によると、鎌倉末期の1307年(徳治2年)に日像の教化によって天台宗から法華宗に改宗した際、日像が西山に「妙」の字を書いて点火したのが「妙」の送り火のはじまりだといい、一方東山の「法」の字はそれより数百年遅れて江戸時代に湧泉寺の末寺・下賀茂大妙寺の2祖・日良(にちりょう)が書いたことがはじまりとされています。
ちなみに「妙法」が昔の読み方であれば「法妙」と右から左へ並ぶのが自然なところ、現代のように「妙法」と左から右へ並んでいる点については、妙の字が松ヶ崎の西端の西山にあったため、法の字を足すとしても村には山が東側にある東山しかなかったからであろうといわれています。
また送り火前夜の8月15日と当日16日の両日には境内にて「松ヶ崎題目踊り」が行われていますが、これは鎌倉末期に日像によって布教を受けた際、村民が説教に感激してお題目を唱えながら踊ったとされるもので、その踊りが「松ヶ崎題目踊り」の名で次第に有名となり、江戸初期の承応年間(1652-55)には後水尾上皇も見物に行幸されたと伝えられています。
太鼓に合せて独特の節回しでお題目を唱える素朴な踊りですが、「日本最古の盆踊り」ともいわれ、京都市の「重要無形民俗文化財」にも指定されています。